<「少国民世代」>

<「少国民世代」>

平民宰相・広田弘毅の苦悩(「軍部大臣現役武官制」の復活<–最悪!!)

広田弘毅は二・二六事件に対して粛軍を断行した。しかしこれは
軍部内部の派閥争い(統制派による皇道派締め出し)に利用され、
軍部が全面的に反省の意を示したことにはならなかった。そればか
りか、陸軍より「粛軍の一環として、軍部現役大臣(軍部大臣現役
武官制)への復帰」という提案が出され 、広田弘毅は「現役将官の
なかから総理が自由に選任できる」ことを条件にそれを認めた。

しかし、たとえ条件つきでも軍部大臣現役武官制のもとでは、ど
んなときにも陸軍主導の内閣を作ることができるようになってしま
った。

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<「少国民世代」>

「少国民世代」などとも呼ばれるこの世代は、敗戦時に10歳前後から10代
前半であった。敗戦時に31歳だった丸山(丸山眞男)など「戦前派」
(この呼称は丸山らの世代が自称したものではなかったが)はもちろん、敗
戦時に25歳だった吉本など「戦中派」よりも、いっそう戦争と皇国教育に塗
りつぶされて育ったのが、この「少国民世代」だった。

1943年の『東京府中等学校入学案内』には、当時の中学校の面接試験で出
された口頭試問の事例として、以下のようなものが掲載されている。

「いま日本軍はどの辺で戦っていますか。その中で一番寒い所はどこです
か。君はそこで戦っている兵隊さん方に対してどんな感じがしますか。では、
どうしなければなりませんか」。

「米英に勝つにはどうすればよいですか。
君はどういうふうに節約をしていますか」。

「日本の兵隊は何と言って戦死
しますか。何故ですか。いま貴方が恩を受けている人を言ってごらんなさい。
どうすれば恩を返す事ができますか」。

こうした質問は、児童一人ひとりに、君はどうするのかという倫理的な問
いを突きつけ、告白を迫るものだった。

(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、p.657)

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文部省より『国体の本義』という精神教育本を発行(昭和12年4月)。

橋川文三はその著(『昭和ナショナリズムの諸相』)のなかで興味深い
指摘をしている。次のようにである。

「(ファシズムの)推進力となった団体といいますか、主体というこ
とと同時に、その主体のさまざまなアピールに応える共鳴盤といいます
か、そういったものを合わせて考えないと、推進力という問題はでてこ
ないのではないかと思います。ここで共鳴盤として考えたいのは、具体
的に申しますと、農村青年とか、一般知識人とか、学生という階層にあ
たるわけです。

はじめから右翼的な団体があって、それがそのままファ
シズムを作りあげたのではなく、それに共鳴する大衆の側、あるいは中
間層、その層にいろいろ問題があったわけです。だからこそファシズム
という一つの統合形態を生みだしえたと考えるほうが妥当ではないかと
いうことです」

共鳴盤という言い方が示しているのだが、それは権力を動かすグループ
と「臣民」化した国民がともに声を発し、それが山彦のようにこだまして
反応しあうその状態といっていいのではないか。

(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、pp.126-127)

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「久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日
の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、
眞に我が国独自の立場に還り、萬古不易の国体を闡明し、一切の追随を
排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米攝収醇
化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設す
ベきである」

この訴えが、『国体の本義』(全百五十六頁)の全頁にあふれている。

現在、この冊子を手にとって読んでもあまりにも抽象的、精神的な表現に
驚かされるのだが、なによりも天皇神格化を軸にして、臣民は私を捨てて
忠誠心を以て皇運を扶翼し奉ることがひたすら要求されている。昭和十二
年四月には、この冊子は全国の尋常小学校、中学校、高校、専門学校、大
学などのほか、各地の図書館や官庁にも配布されたというのである。

この『国体の本義』は、前述の庶民の例の代表的な皇国史『皇国二千六
百年史』を誘いだす上部構造からの国益を前面に打ちだしてのナショナリ
ム涵養の書であった。橋川文三がその書(『昭和ナショナリズムの諸
相』)で説いたように、まさに共鳴盤の役割を果たしていたといっていい。

(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、pp.128-129)

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廬溝橋事件(昭和12年7月8日未明)が発端。(S12.6第一次近衛内閣発足)

北京郊外の廬溝橋に近い野原で、夜間演習中の第一連隊第三大隊
が、国民党軍から発砲を受けた。

当時の中国、特に華北情勢は、蒋介石の南京政府と共産党、
冀察政権(宋哲元・政務委員長)三者のきわめて微妙なバランスと相互作
用の上に形成されていた。

(なお国民党はナチス・ドイツと極めて緊密な関係にあり、
同時に日本は日独伊防共協定の締結国として大事な政治上のパートナー
であって、日中が対立することはドイツの世界戦略にとって頭痛の種となっていた)

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支那事変は厳密には重慶に位置する蒋介石政権に対する軍事行動だ
った。日本はあえて「支那事変」と称した。それは「戦争」と宣言
した場合主として米国が日本に対する物資の輸出を禁絶するであろ
うと虞れたからである。

(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』)

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陸軍参謀本部作戦部長は石原莞爾だった。石原は作戦課長の武藤章
らの強硬論と対立し、期せずして日中戦争不拡大派となっていた。

「自分は騙されていた。徹底していたはずの不拡大命令が、いつも
裏切られてばかりいた。面従腹背の徒にしてやられたのだ」。

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日中戦争がなぜ起きたのかを理解するには、満洲国建国以降の日本
の対中国政策という問題とともに、北清事変以来、中国の主権下に
列強が自由に設定した場所に日本軍が30年余にわたって駐屯し続け
て領土の分離工作を進めるとともに、連日、夜間演習をおこなって
いたという史実にも目をむけておく必要があるのではないでしょうか。

(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、p.76)

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国家至上主義の台頭

(軍人の思い上がり)

「天皇の命令といえども、国家に益なき場合は従う必要はない」

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南京攻略戦を書いた石川達三氏著『生きている兵隊』は1/4ほど伏字
で昭和13年発表されたが翌日発禁となった。

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中国、第二次国共合作成立(1937年、昭和12年8月)。

中国における排日抗日の気運の昂揚(「救国抗日統一戦線」)

・対中国政策における石原莞爾の孤軍奮闘(1935~1937年、昭和10~12年)

(注:石原は以前、関東軍参謀として満州事変の企画立案をした)

・「支那と戦争しちゃいかん」

・「日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支結合してして大工業
を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争はできない」

・「支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、日本は滅びる」

井本熊夫氏(元東条英樹秘書官)へのインタビュー(『沈黙のファイル』 共同通信社)

いやはやまったく、張作霖爆殺事件や満州事変の首謀者(石原・板垣)
がよく言うよと言いたい。ただし、この頃の参謀本部では石原や参謀
次長の多田駿、戦争指導班の秩父宮、今田新太郎、堀場一雄、高嶋辰彦
らは、軍事的に冷静な目をもった良識派だった。
中国の目まぐるしい政変と経済的復興に伴い、日本の対中姿勢も転換を余儀なくされていた。

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第二次上海事変(1937年、昭和12年8月13日)

中国空軍が上海の日本軍の戦艦出雲を空爆する。指揮官はアメリカ軍人
シェンノート(宋美齢の要請)。しかし中国空軍は租界を誤爆(?)した
り、着陸失敗など惨憺たる有様だった。西欧諸国はこの誤爆を全て日本の
責任として報道、日本は不当にも西欧列強から手ひどく指弾され、英国は
ついに蒋介石支援を決意した。

結局、この第二次上海事変では、蒋介石側の溢れる抗戦意欲、ドイツの
協力指導による焦土作戦の緻密さ、英米各国の蒋介石政権への固い支持が
明らかになった。

しかし参謀本部はこの脅威を一顧だにしなかった。

このとき日本では松井石根を司令官とする上海派遣軍が編成され、昭和
12年8月14日に派遣が下命された。蒋介石は15日に総動員令を発動し、大
本営を設置、陸海空軍の総司令官に就任。これより日中衝突は全面戦争へ
と発展した。昭和12年11月までに死傷者は4万余に達した。

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日中全面戦争に至り死傷者が急増した。「一撃膺懲」などという安易なスロー
ガンのもと、何の見通しもないまま激しい総力戦へと引きずりこまれていった国
民が、憤激したのは当然だった。

しかしこのような事態にたいし、政府は国民の精神、気分自体を統制しよう
と試みはじめた。近衛首相は上海事変たけなわの9月11日に、日比谷公会堂で
国民精神総動員演説大会を開催、事変への国民的な献身と集中を呼びかけた。
9月22日には、「国民精神総動員強調週間実施要綱」が閣議決定された。
10月半ばには、国民精神の昂揚週間が設けられ、政財界など民間の代表を理事に
迎え、各県知事を地方実行委員とする国民精神総動員中央連盟が結成された。

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)

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戦争拡大派が2カ月で片付くと予想した戦闘は、中国軍の烈しい抵抗で思いも
かけない規模に拡大することになった。とくに上海に戦火が波及してからの激戦
で、日本軍の苦戦がつづき、次々に増援兵力を送らなければならなくなった。こ
のため兵力も、弾薬や資材も、予想もしなかった規模にふくれ上った。

もともと日本陸軍は、対ソ戦争を第一の目標としていた。中国との戦争が拡大
しても、対ソ戦の準備を怠るわけにはいかなかった。そして対ソ用の現役師団を
なるべく動かさないで中国に兵力を送るために、特設師団を多数動員した。

特設師団というのは現役2年、予備役5年半を終了したあと、年間服する年齢の高い後
備役兵を召集して臨時に編成する部隊である。1937年後半から38年にかけて、多
数の特設師団が中国に派遣されることになった。現役を終ってから数年から十数
年も経ってから召集された兵士たちが、特設師団の主力を構成していたというこ
とになる。また彼らの多くは、結婚して3人も4人も子供があるのが普通だった。

「後顧の憂い」の多い兵士たちだったといえる。上海の激戦で生じた数万の戦死
者の多くが、こうした後備兵だったのである。それだけに士気の衰え、軍紀の弛
緩が生じやすかったのである。軍隊の急速な拡大による素質の低下、士気、軍紀
の弛緩も、掠奪、暴行などの戦争犯罪を多発させる原因を作ったといえる。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.15)

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南京事件(1937年、昭和12年12月13日)

南京攻略戦については、S12.12.1(大本営が南京攻略を命令)から
S13.1.8(南京城占領後治安回復)まで、と考える。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、p.27)

また南京大虐殺に関する論争やいやがらせなどについては笠原十九司氏の
『南京事件と三光作戦』(大月書店)という名著がある。

当時の外相広田弘毅は特にこの事件のため後の東京裁判で文官として
ただ一人死刑になった。

11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のままで、宣戦布
告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。

第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)は、その上司
多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京其ノ他ヲ攻撃セシムルコト
ヲモ考慮シテ居リマス」という説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷
く紊乱していた。当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けな
い軍にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして最後の倫
理の基盤であったはずだ。

それがかような形で侵されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、
暗然とせざるをえない事態であった。

南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途がまったく立たなくなる
ということさえ予見できない無知無能連中が参謀本部を支配
していた。

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近衛最大の失政:

「仍(よっ)て、帝国政府は爾後国民政府を対手とせず・・」

これをもって、蒋介石政権との決別が決まった。(昭和13年1月16日)

しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であったことは明らかである。

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石原莞爾(満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)

「私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、これは
戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の全力を挙げて、
持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思った。然し
どちらもやりません。ズルズル何かやって居ます。掛声だけです。
掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。・・

私は3か月振りで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。
満州も絶対にいいことはありませんが東京はいい悪いではありません、
少し滑稽と思ひます。
阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人がありますが、
そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」

(福田和也『地ひらく』文藝春秋)

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<近衛文麿>

(戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)

過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り角がある
たびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていたこと、しかもこの
ような重大な曲り角の一つ一つでかれの決定がいつも、侵略と軍お
よびその文官同盟者が国を抑えこむ万力のような締めつけとを支持
したことを明らかにせずにはいない。

近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめは、かれ
だけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の有力な各部門、
宮廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させたことであった。

(粟屋憲太郎『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)

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厚生省が新設された。(1938年、昭和13年1月11日)

内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。

(—>この後約8年間、厚生省が「阿片政策」を担当)

・1938年、里見甫は上海の陸軍特務部から阿片配給組織をつくる
よう命令された。—>「宏済善堂」(「火煙局」=「里見機関」)

阿片販売は日本政府・軍部の国家的プロジェクトだった

阿片に関与したものども:

原田熊吉、畑俊六、里見甫、福家俊一、塩沢清宣、児玉誉士夫(田中隆吉の供述)。

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・南京攻略後は慰安婦が制度化された

・満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(1938年、昭和13年)

数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。彼らは後
にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に達したら関東軍に召集された。

・ソ連極東地方内務人民委員部長官リュシコフ大将が満州国に亡命

リュシコフによれば満ソ国境のソ連軍は飛行機2000機、戦車
1900輛に達していたが、関東軍はそれに対して飛行機340機、戦車
170輛だった。しかし関東軍はこの大きな差に対し何も対策を立て
なかった。死を恐れない白兵戦と大和魂に根ざす感情的な
強がりが、このあとのノモンハン事件の大惨敗の伏線になった。

==
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張鼓峰事件(ハサン湖事件、1938年 昭和13年8月)

「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっとした思い
付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの日本人兵士が無駄に
死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊び好きな幼稚なものどもの集ま
りだった。

田中隆吉中佐の述懐

「私の連隊は、野砲、山砲、垂砲合計36門を装備していた。
二百数十門のソ連砲兵隊と射撃の応酬をしたが、敵の弾量の豊富
なことはおどろくばかりで、こちらは深刻な弾丸不足に悩むばか
りであった。

どれほど旺盛な精神力をもってあたっても、強大な火力のまえ
には所詮蟷螂の斧であることを、身をもって知った。

私は日本陸軍のなかで、日露戦争以後、近代装備の砲兵と戦っ
た最初の砲兵連隊長である。張鼓峰の一戦のあと、私は日本の生
産力をもって、近代戦をおこなうのは到底不可能であると、上司
にしばしば意見を具申したが、耳をかたむけてくれる人はいなかった」

(津本陽『八月の砲声』講談社、p.24)

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●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明

この敗戦をさかいに日本は南方進出を決定。

関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の近代
陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には責任を
押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。

(「元亀天正の装備」については司馬遼太郎『この国のかたち<一>』を参照)

第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たち
の起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいった・・。

(半藤一利『ノモンハンの夏』)

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<特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ> (師団長 園部和一郎中将)

「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思ったのは、

第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫も計画的
らしきところのなき感を深くしたこと。

第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はでたら
めなるように思われ、

第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。

第四、作戦地の関係上、ノモンハンの敵は大敵なり。

要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべからざる
大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条件をもっ
て渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なりと愚考致したる次第なり」

(津本陽『八月の砲声』講談社、p.278)

==
==

信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車で
ある以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じである」
とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問
を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子供でもわかる
単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であった。戦車戦術の
教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたの
である。
じつに昭和前期の日本はおかしな国であった。

(司馬遼太郎『歴史と視点』)

==
==

幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、ソ連
の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであった事実は、
何を意味するものであるのか。

頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現実を
正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織社会の遊
泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況に対応するに
は歯車が噛みあわず、空転することになる。

辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめるま
で、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の感覚など
という段階ではなく、近代戦についての知識がまったくといってい
いほど欠落していることに気づいていなかった。

日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組織の
内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家のような官
僚的軍人を産みだしていたのである。

時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘して
いるあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘において世界
に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器を備えた敵国
の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこめば勝利できると
いう錯覚を、いつのまにか抱くようになっていたのである。

(津本陽『八月の砲声』講談社、pp.276-277)

==
==

鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数の若
い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるような、無責
任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想像すれば、鳥
肌が立つ。

彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国軍の
中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりない参謀で
あった。

罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、なぜ負
けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥じるとこ
ろがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊を、将棋の駒
としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼らの胸中を疑わざ
るをえない。

(津本陽『八月の砲声』講談社、pp.288-289)

==
==

(ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)

辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名の前
に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大しているようであ
った。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。

「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連隊長、
軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」

潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下し、
手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。

(津本陽『八月の砲声』講談社、p.452)

==
==

停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任隠し
のため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させられた。

歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一
中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)の
3名だった。

(津本陽『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

==
==

「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ
死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活
が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。

議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の
世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、
背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る
の想いを抱いたものであった。・・・

それからもう何十年もたった。この間、
多くの書を読みながらぽつぽつと調べてきた。

そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて
幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半を
動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあって
は、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもって
いるものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神
をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばなら
ないのである。・・・

およそ何のために戦ったのかわからない
ノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な
都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人々が死に、あっ
さりと収束した。・・・」

(半藤一利『ノモンハンの夏』)

・この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされることなく
大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍であった。

==
==

・独ソ不可侵条約(M-R協定)締結(1939年、昭和14年8月23日)

(—> 9月1日、第二次世界大戦へ)

日本では対ソ戦の有利な戦いを練るために、ドイツと軍事同盟を結ぼ
うかと盛んに議論している最中に、ヒトラーとスターリンが手を結んでいた。

==
==

モロトフ・リッべントロップ秘密協定

独ソ不可侵条約締結の際にスターリンの側近のソ連外相モロトフ
とナチス・ドイツの外相リッべントロップの間に結ばれた秘密協定で、
ポーランド分割、沿バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)
とモルダビアをソ連に割譲することなどが取り決められていた。この
中にはスターリンとヒトラーの醜悪極まりない政策がはっきりとみてとれる。

(佐藤優『自壊する帝国』新潮社、pp.153-155)

==
==

われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているがその
ヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本
というもののおろかしさを考えたことがあるのだろうか。

(司馬遼太郎『歴史の中の日本』)

==
==

「創氏改名」(1939年、昭和14年12月26日) 朝鮮民事令改正(翌年2月実施)

「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんたたちは、
何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた朝鮮、朴の名
前を、変な日本名の木村に切り替え使わせているのか!!」

木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、1940年
2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本式の氏を新
しく創り、名乗らせることを事実上強要したのである。同年8月ま
での半年で、全世帯の8割、322万人が創氏した。儒教を重んじる
朝鮮では、家をとても大切にする。創氏改名は、何百年も続いて
きた自分の家系、祖先を否定される屈辱的な行為だった。

呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。

「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかったから
だろう。バカにしているからだ!!」

何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情でト
ウタを睨んだ。

「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」

母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかった。

(神田昌典『人生の旋律』講談社、p.59)

==
==

日本軍の毒ガス散布の一例(1939年12月16日)

尾崎信明少尉の回想記(嘔吐性ガス『あか』を散布)

かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本の赤筒もなく
なった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣…。しかし、壕の所まで行
って私は一瞬とまどった。壕の中には敵があっちこっち、よりかかるよ
うにしてうなだれている。こんなことだったら苦労して攻撃する必要も
なかったのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、次の
瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さなきゃ」と、右手
の軍刀を横にして心臓部めがけて…。グーイと動いた、分厚い綿入れを
着ており、刀ごと持って行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
(中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。

(吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)

==
==

・欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の東南アジア
進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄圏」拡大構想推進の
千載一遇のチャンスと見えた。またアメリカが対日全面禁輸の措置に
でるまえに東南アジアの資源を確保する必要があった。

・天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字機の模造機
を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき以来日本の外交機密は
アメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。また日本海軍の暗号も1942年
春に破られた。

・日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。
陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた。

ーーーーー
色平
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