樺美智子

樺美智子

こうした運動を攻撃したのが、右翼団体だった。6月15日夕方、「維新行動隊」
の旗を掲げた右巽が、二台のトラックで国会周辺の新劇人の隊列に突っこみ、釘
を打ちこんだ棍棒と鉄棒で殴りかかった。このとき国会を警備していた警官隊は
右翼を制止せず、女性が主に狙われ、約60人が重軽傷を負ったといわれる。

敗戦後に低迷していた右翼運動は岸政権のもとで伸張し、1958年1月には、元
内相の安倍源基や防衛庁長官の木村篤太郎などを代表理事として、新日本協議会
が結成されていた。翌1959年には全日本愛国者団体会議が誕生して、この両団体
は安保改定促進運動を展開していた。日教組の教研集会に対する右翼の妨害が始
まったのも、1958年からだった。自民党の幹事長だった川島正次郎は、アイゼン
ハワー訪日の警備と歓迎のため、こうした右翼団体を動員する計画を立てていた。

右翼による襲撃は全学連主流派を刺激し、この6月15日の午後5時半には、学生
たちが国会構内に突入した。しかし共産党は、「反米愛国」のスローガンのもと、
傘下のデモ隊を国会前からアメリカ大使館の方に誘導して解散させた。孤立した
全学連主流派のデモ隊は警官隊に制圧され、負傷者は救急車で運ばれた者だけで
589名にのぼり、東京大学の女子学生だった樺美智子が死亡した。

(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.533-534)

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樺美智子

誰かが私を笑っている こっちでも向うでも 私をあざ笑っている
でもかまわないさ 私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり 各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか 「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と

でも私は いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう それでいいのだ
ただ許されるものなら 最後に
人知れず ほほえみたいものだ

(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、p.536)

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新しい安保条約はアメリカの日本防衛義務を明文化し、その義務と日本と
アメリカに基地を提供する義務との間の双務関係(相互性)を明確にした。

・・・しかし日本は、この新しい安保条約においても、旧条約と同じよう
にアメリカ領土の防衛義務をいっさい負わなかった(負えなかった)。・・・

つまり安保条約は、改定によって相互性の明確化という意味ではより対等
な条約に変化したが、そこからさらに対等な相互防衛条約に発展するのはか
えって難しくなったかもしれない。

安保改定の主要なポイント

1.国連憲章との関係の明確化

2.日米の政治的・経済的協力

3.いわゆるヴァンデンバーグ条項の挿入=憲法上の規定に従うという
留保のもとで、日本に対して自衛力の維持発展を義務づけた。

4.協議事項

5.アメリカの日本防衛義務の明確化

6.日本の施政下においてアメリカを守る日本の義務の明確化

7.事前協議制度

<事前協議における極秘の取り決め=いずれも推察>

・事前協議は米軍の日本からの撤退には適用されない

・核兵器の導入のみに事前協議は適用されること

・日本の基地からの直接出撃のみに事前協議を行う

・核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする

8.条約に期限を設けた(10年)
=10年間が経過した後は日米いずれかが通告すれば一年で終了

9.いわゆる内乱条項を削除
=旧条約では、日本政府の要請に基づいて
米軍を日本国内の内乱および騒擾の鎮圧に用いることができる、と
規定されていた。

10.行政協定を改定
=在日米軍の諸権利・特権についてNATO方式との
平準化をはかった。日米両政府の摩擦の種であった防衛分担金は廃止

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外交官・西村熊雄の比喩

鰹節を進呈するとき、裸でおとどけするのは礼を失する。安保条約は、
いわば、裸の鰹節の進呈である。日本人は裸の鰹節をとどけられて眉を
ひそめた格好であった。新条約は桐箱におさめ、奉書で包み、水引をか
け、のしまでつけた鰹節と思えばよろしい。桐箱は「国際連合憲章」
(第一条、第七条)であり、奉書は「日米世界観の共通」(第二条)で
あり、水引は「協議事項」(第四条)であり、のしは「十年後さらによ
りよきものに代え得る期待」(第十条)である。裸の鰹節と桐箱におさ
められた鰹節では、とどけられる者にとり、大きな相違がある。心ある
日本人は新しい条約を快く受け入れてくれるに違いない。

(坂本一哉『日米同盟の絆』)

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◆◆◆安全保障の問題では日米双方、事を荒だてないようにしよう◆◆◆

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■社会党浅沼稲次郎委員長刺殺される。(1960.10.12)

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池田内閣の「所得倍増」の喧伝(政治的対立の回避と保守政治の安定路線)

国防という国家の基本にかかわる政治論争を回避した。これにより日本
は真の独立国家を目指すことを止め、極東の産業地帯になろうとした。

(池田、岸、佐藤派の官僚が池田政権を支えた)

(沢木耕太郎『危機の宰相』文春文庫)

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「貿易・為替自由化計画大綱」が閣議決定される(1960.6.24)

石坂泰三(経団連)が強力に主張、日本商工会議所会頭 足立正の賛成。

(菊地信輝『財界とは何か』平凡社、pp.163-166)

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黒沢明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』が公開される。

政界・官界・財界の三つ巴の構造汚職をテーマにした名作。

「大物黒幕」概観 (以下、立石勝規『金融腐敗の原点』を参考にした)

・児玉誉士夫: 政界への「フィクサー」、政財界の月光仮面

戦後最大の黒幕。

巣鴨プリズンでA級戦犯岸信介と親しくなった。(河野一郎、大野伴睦は岸の盟友)
さらに田中彰治(「国会の爆弾男」)の協力で「児玉-森脇-田中彰治」ラインができ、
この関係は1964年(S.39)頃の田中角栄の台頭まで続いた。

(—>後「児玉-小佐野-田中角栄」ラインとして継続)

・辻嘉六: 戦前からの政界のスポンサー、自由党結成に資金援助

・三浦義一: 「室町将軍」、大物右翼、よろず相談所

東条英機とのつながり。GHQ-G2のウィロビーと親しかった。

一万田尚登(日銀の法皇とよばれた)と縁戚関係

・矢次一夫: 岸信介の「盟友」(昭和の怪物)、空前絶後の黒幕、大政翼賛会参与など

・高瀬青山: 沈黙の「怪物」(山下奉文大将の「私設高級顧問」だった)

緒方竹虎(元大政翼賛会副総裁、元自由党総裁)、五島慶太(東急)とのつながり

・森脇将光: ヤミ金融王、森脇メモ(造船疑獄を暴露)で日本を震撼させた。

森脇調査機関主幹。(「児玉-森脇-田中彰治」ラインによる暗躍)

・小佐野賢治: 田中角栄の刎頚の友

・笹川良一: 「競艇のドン」「岸->佐藤-矢次-笹川」ライン

・田中清玄: 児玉誉士夫と対立、GHQ高官と親交、転向した反共主義者。

信じ難いスケールと内容の国際人脈をもつ。

巨大労組、日本電気産業労働組合との戦いの中で力をつけた。

(共産党系を排除して民主化同盟の主導権を確立)

インドネシア産原油輸入において、岸信介と激しく利権闘争し、ついに勝利した。
この裏にはスハルトとの親交があった。

田中清玄は岸の権力的・官僚的エンジニアリングの思想が嫌いだったという。

(後半部: 宮崎学『近代ヤクザ肯定論拠』筑摩書房、p.304)

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<プルトニウムーーこの世で最も毒性の強い元素>

プルトニウムは、この世で最も竜性の強い物質のひとつ、とよくいわれる。

後から述べるように、その毒性の評価は未だ専門家の間でも大きく意見の分れ
るところだが、どんな評価をとっても、プルトニウムが「地獄の王の元素」の
名にふさわしく、超猛毒の物質であることには、まぎれがない。その毒性がこ
の元素を大きく特徴づけることになった。

現行の許容量の妥当性には、さまざまな疑義が提出されているが、現行の許
容量をとっても、一般人の肺の中にとりこむ限度は、プルトニウム239の場合、
0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー)とされている。これは重量にし
て4000万分の1グラムほどに過ぎず、もちろん目に見える量ではない。骨を決
定臓器とした場合の許容量も、0.0036マイクロキュリーと小さい。

このように大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ線であ
る。アルファ線は、その通路に沿って電子をたたき出すが、これが放射線のも
たらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離
作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって、い
ろいろな障害がもたらされるのである。

(高木仁三郎『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、p205:
1981年『プルトニウムの恐怖』を著作集として再録)

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ブレトン・ウッズ体制の影響について(1960年末の状況)

・アメリカの貨幣用金の減少

:220億ドル(1958年)–>180億ドル(1960年)

・外国人所有ドル預金と財務省短期債券の増加

: 80億ドル(1950年)–>200億ドル(1960年)

1960年末の時点で、アメリカの金保有高は実質的に底をついていた。

1960年10月27日、アメリカ大統領選で、ケネディ有利の影響で、従来
金1オンスが35ドルであったが、急に40ドルに跳ね上がった。

1960年~1964年の5年間のアメリカ合衆国の経済

・輸入総額           :800億ドル

・国外の軍隊維持        :110億ドル

・外国への投資、他国での資産形成:290億ドル

・外国旅行、経済援助      :180億ドル

(P・バーンスタイン『ゴールド』鈴木主税訳、日本経済新聞社)

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アメリカの途上国援助の条件(内幕): 輸出部門中心の世界銀行からの貸付

輸出能力が高まれば、国内経済に二つの好ましい影響を及ぼすというのが、
その根拠だった。輸出から得られた収入で農産物や工業製品を輸入できるよう
になるだろうし、さらに、借り手国内に収入を生み出すことで、その国の農業
や工業製品産業を支えることができるにちがいない……。こうして世銀貸付の
おかげで、借り手国の国内消費経済は安定し、同時に輸出能力の拡大によって
その国は工業的に豊かになるはずだった。

これは、完全無欠な理論だった。つまり、もし現実がそのとおりなら、完全
無欠だったにちがいない。

この理論の根底には、事実を解釈する際の誤りがあ
った。インプットとしての貸付は、考えられたような結果を実際に生み出すか
もしれない。だが、償還局面でのアウトプットとしての貸付についてはどうか?
この間いはなおざりにされた。

理論的に貸付は贈与の一種として扱われ、その
利子を伴う償還は、交換可能通貨の形において、生み出される輸出収入より小
さいと仮定されたのだ。借り手の国々は、まるで、借り入れた資金を利用して
の現金収益が債務償還と利子支払いを合わせた資金流出より確実に多い、堅実
な会社であるかのように扱われた。

残念ながら、それらの国々が途上国と目さ
れるゆえんは、まさにそういう特徴が欠如しているからにほかならなかったの
だが……。途上国経済の非消費部門に莫大な量の資本投入を行った効果の一つ
は、途上国経済の能力では消費財部門の産出を増加させてそれを相殺できない
ほどの、所得の伸びだった。こうして輸出と同じく輸入が伸び、それらの国々
が輸出収入の増加をもとに債務償還義務を果たしていく実質的な能力は大きく
狭まった。

さらに、途上国経済の急激な工業化の結果として、工場で職を得ようとする
人々が田舎から都会にあふれでてきた。とはいえ雇用の伸びは、土地を離れた
人々を都市産業に吸収するには追いつかない。農民や日雇い労働者としての以
前の生活水準がいかにみじめなものであろうと、少なくとも彼らは自活してい
た。だが吸収力の十分でない都市産業の磁力に引かれて土地を離れた人々は自
立できず、必然的に国の資源を食いつぶすことになる。それに加えて、人々が
農村を離れたせいで、食糧の生産は落ち、蓄えも乏しくなつた。

輸入ーー今や食糧のーーを増大させる副次的な必要性が起こり、時が経ち、
人々の都市への流入が続くにつれてますます拡大していった。農村人口の減少の
せいで農産物の生産高が減り、必須食料品の市場での需要が増加するにつれて、
国内の物価はどこの国でも暴騰した。急激な工業化がもたらした全体的な効果は、
自給能力を弱めてそれら途上国の経済を不安定にし、その結果のインフレにより
すでに量の増えていた輸入品の価格を増大させることだった。

結果として、途上国の毎年の債務返済費用は、1968年までに47億ドルに達し
た。これは、1960年代初めの10パーセントと比して、総輸出の20パーセントに
匹敵する。援助借入国は、交換可能通貨の面から見て信用貸し可能性の絶対的
限界にまで至っていた。利子の支払いと過去の援助借入の返済を、悪化してい
く貿易・サービス収支から支払わなくてはならなかったのだ。この膨大な債務
に資金を再供給し、少なくとも通常の支払能力を維持するために、途上国は自
国の経済成長の方向を変えざるをえなくなり、農業や消費財産業の拡大を制限
して、以前にもまして輸出部門に力を注いだ。

これはある形の強制的貯蓄であ
り、自国の経済を国内の必要性や自国民の願いではなく、対外債務の要求に集
中させることにほかならなかった。その結果は、どの国でも一連の経済成長の
ゆがんだパターンとなって現れた。成長が奨励されるのは、対外債務返済の手
段を生み出す分野だけで、それは、対外債務返済手段を生み出す分野における
成長のための資金を借りられるようにするためであり、これが繰り返されていく。

ジョー・ヒル〔アメリカの労働運動の指導者〕の言葉、

「われわれは仕事に行く。仕事に行くのは金を稼ぐためで、金は食べ物を買うためで、
食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで、仕事に行くのは金を稼ぐためで、
金は食べ物を買うためで、食べ物は力を出すためで、力は仕事に行くためで……」

が国際的なスケールで現実化されたようなものだ。世銀は、机上で援助計画を
立てた相手の国々を貧困に追いやっていた。世銀が公言した目的と現実の展開
との間にはどうしようもない矛盾があった。

(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、徳間書店、pp164-166)

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OPEC(石油輸出国機構)結成(1960年9月14日)

世界の石油争奪戦(アメリカの憂鬱)のはじまり。ベネズエラが提唱しイラ
ン・イラク・クェート・サウジアラビアが加入。これにより大手石油会社が石
油価格をコントロールすることが不可能になった。その後アルジェリア、イン
ドネシア、リビア、ナイジェリア、カタール、アラブ首長国連邦が加盟。

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石油経済とそれを支配するアメリカの地位は、つねに二つの条件に支えられ
ていた。ひとつは安定的な石油供給であり、もうひとつは増大の一途をたどる
石油需要を満たし続ける能力である(この需要を満たすには既存の油田の産油
量を増やすか、別の油田を新しく見つける必要があった)。しかし、この二つ
の前提条件は崩れ始め、「安定的な石油供給」はもはや保証されなくなっていた。

1946年にはアメリカの石油消費量は国内産油量を上回り、アメリカは同国
史上初めて石油の純輸入国となった。このことはきわめて大きな影響をもたら
した。ある歴史家が記述したとおり、二度の戦争をつうじて世界に石油を供給
したアメリカは、「実際には石油の輸入国になっていて、ベネズエラやサウジ
アラビアから石油を輸入しなければ、同国の東海岸は凍りついてしまう」状況
にあった。

ここへきてアメリカ国民は、イギリスやヨーロッパ大陸諸国、日本
が長年抱えてきた悩みや不安を実感するようになった。アメリカは、経済・軍
事大国でありながらその生命線を他国に支配されるという、二十世紀の大いな
る矛盾を体現する国になったのである。

そして、この不安定な状況をさらに危うくするかのように、”外国産”の石
油も急に当てにならなくなった。1938年、憤慨したメキシコ政府は石油産業を
国営化したが、そのときの怒りが欧米諸国に石油を支配された他の産油国にも
広まったのだ。石油の重要性が高まり、力と富の獲得にあたって今後は石油が
カギを握ることが明確になると、産油国は力と富を自国にもっと分け与えるよ
う要求するようになった。

ベネズエラは石油価格を引き上げ、中東の産油国に
外交ルートで接近を図るようになった。1948年には、イスラエル建国に激怒し
たアラブ諸国が、アメリカをはじめイスラエルを支持する国すべてに対して石
油輸出の中止を警告するという、きわめて深刻な事態も生じた。

その三年後にも未来を予感させる出来事が起きた。イランがイギリスやアメ
リカの大手石油会社を国内から追放して、石油産業を国営化したのだ。他の産
油国もこれに続き、1960年には世界初の石油カルテルである石油輸出国機構
(OPEC)が結成された。突如として、世界の石油産業地図は世界の政治不安を
示す図に変わってしまったかのようだった。

そうした政治不安がどこよりも顕著だったのが中東である。中東の石油埋蔵量が
世界の総産油量の半分をゆうに超えることはすでに知られていた。かつてはごく
少数の国際石油会社が世界の石油産業の大部分を支配していたが、ほんの数年の
うちに、その支配権はペトロステートという新たなプレーヤーの手に移った。
ペトロステートとは、サウジアラビアやベネズエラなど、豊富な石油埋蔵量を
誇る国々の新たな呼び名である。

運命が一転した石油メジャー各社は、主要産油国以外の国(いわゆる
OPEC非加盟囲)が生産する石油の争奪戦を繰り広げるようになり、これまでに
なく遠く採掘困難な場所で石油を探す傾向もさらに強まった。

(ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.74-75)

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●1961年1月アメリカ、民主党ケネディ政権誕生

●エドウィン・O・ライシャワー駐日大使着任(1961年4月)

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●韓国軍事クー・デタ:朴正煕政権成立(昭和36年5月16日)

KCIA創設(初代部長:金鐘泌)

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ケネディ大統領が沖縄復帰問題について重要な先鞭をつける。

<ライシャワーの進言>

沖縄人はアメリカの軍事的支配を歓迎しており、自立など
ということには全然関心がない、という主張は明らかに間違
っている。ライシャワーによれば、沖縄人には一定の文化的、
言語的特徴があるが、彼らは自分たちを日本人と考えていて、
ほとんどが本土復帰に賛成しており、この感情は日本の激し
い政治問題となるだろう、というのである。ライシャワーは
ケネディに、沖縄に大幅な自治を許し、日本政府と協力して
生活水準を改善するよう勧告した。

(マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか』、市川洋一訳、草思社、p.303)

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・キューバ危機(1962年10月16日~28日)

アメリカがキューバに敷設したソ連のミサイル基地撤去を要求。

ケネディとフルシチョフの間で無意味な戦争が回避された。

・ケネディ大統領暗殺(1963年、昭和38年11月22日(日本時間23日))

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・中国共産党のフルシチョフ批判

「修正主義化し資本主義の復活を図る反革命集団だ」

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「三矢研究」(昭和38年度統合防衛図上研究実施計画)(1963.2)

昭和38年2月、東京・市ヶ谷の統幕講堂で、陸海空自衛隊の征服幹部が極秘
裡に集まって、朝鮮半島を中心とする戦争の図上練習を行うとともに、それに
際しての国家の全面管理について話し合った。戦後日本での初めての本格的な
有事研究だった。

演習は第一動から第七動までの想定に基づき、

第一動では、韓国情勢が悪化、韓国軍が反乱を起こしたとする。

第二動は、韓国反乱軍に対し北朝鮮軍の支援が行われ、米軍がこれに反撃。

第三動は、北朝鮮軍が三八度線を突破して新たな朝鮮戦争に発展、自衛隊が出動を準備
するとともに、日本国内の総動員体制が樹立される。

第四動は、自衛隊と米軍の共同作戦。

第五動では、西日本が攻撃を受け、朝鮮半島では戦術核兵器が使用される。

第六動では、ソ連軍が介入。

第七動では、日本全土にソ連軍の攻撃がなされ、全戦場で核兵器が使用される。

しかし北朝鮮、中国に反攻作戦が展開され、核の報復攻撃も実施して最後的に米側が勝利する。

白昼夢か妄想か倒錯か。

だが、これは一部の単純な狂信者による戦
争ごっこではない。統合幕僚会議事務局長であった田中義男陸将の主
導で行われ、制服からは「集めうる最高のスタッフ」が参加し、防衛
庁内局、在日米軍司令部からも少人数が出席した。

「密室」周辺ではものものしい警備がなされ、出席者全員が腕章をつけ、部外者
の立ち入りは一切禁止されたという。図上演習は戦闘のシミュレーションにとどまる
ものではなく、第三動にさいしては、八十七件にもおよぶ非常時(有事)立法を
成立させて政治、経済、社会を全面管理する国家総動員体制を確立するという、
憲法など歯牙にもかけない研究が本気でなされたのであった。

この三矢研究の「国家総動員対策の確立」のなかでとくに鳥肌が立つのは、
「人的動員」の項目で、「一般労務の徴用」「業務従事の強制」
「防衛物資生産工場におけるストライキの制限」
「官民の研究所・研究員を防衛目的に利用」
「防衛徴集制度の確立(兵籍名簿の準備・機関の設置)」
「国民世論の善導」などを、
制服組が当然のごとくに論じていることだ。

さらに、「国民生活の確保」の項目では、「国民生活衣食住の統制」
「生活必需品自給体制の確立」「強制疎開」「非常時民・刑事特別法」
「国家公安維持」などが語られている。まさに「軍政」そのものである。

(辺見庸『記憶と沈黙』毎日新聞社、pp.173-175)

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==

1964年、アメリカの軍事衛星SNAP-9Aがインド洋上空で炎上し、
プルトニウムの仲間であるプルトニウム238約1キログラムが空か
ら世界中にばらまかれた。プルトニウムは、「この世で最も毒性
の強い物質のひとつ」といわれる猛毒の放射性物質である。1キロ
グラムといっても、もしそれをそのまま人びとが吸い込んでいた
ら、1兆人分もの許容量にあたる。この出来事は、プルトニウム
がすでに私たちの生活環境にも深く入りこんできたことを示していた。

(高木仁三郎『高木仁三郎著作集<プルートーンの火>』七つ森書館、pp.124~126)

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・中国が核実験を成功させた(1964.10)。

この後1966年10月にはミサイル実験も成功させている。

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<本多勝一(朝日新聞記者)ルポ『戦場の村』>

本多がそれと対照的な存在として描きだしたのが、南ベトナム解放
戦線の兵士たちだった。本多が会見した解放戦線の青年将校は、彼の
身を案じて写真撮影を遠慮する本多たちにむかって、
「私は民族の独立に生命をささげた人間です。傀儡政府のもとで生きて行くこと
がない以上、顔が外部にわかっても一向にかまいません」
と返答した。
米軍の空襲のもとで抗戦する解放区の幹部は、
「われわれは軍事的に負けているでしょう。しかし負けません。
負けても、負けないのです。本当の勝利とは何でしょうか」
と述べた。

アメリカの空襲に耐え、アメリカの物質的誘惑に抗しながら、
「民族の独立」を掲げる解放戦線のありようは、日本の読者から多くの共感を集めた。
圧倒的な物量と科学力で攻めよせる米軍にたいし、粗末な兵器と乏しい食料で
善戦する彼らの姿も、戦争体験者の心に訴えるものがあった。
本多のルポが連載された『朝日新聞』には、読者からの共感の投稿が殺到したという。

しかしこうしたベトナムのあり方は、日本という国家を問いなおさ
ずにはおかなった。本多は、日本製の軍用トラックや上陸用舟艇を米
軍が使っていること、日本の業者の輸送した燃料で北爆が行なわれて
いることを報道した。ベトナムに派遣されていた韓国軍の将校は、
「この戦争で、日本はどれだけもうけているか知れないほどですなあ」
とコメントした。
本多は日本という国家を、「死の商人」と形容せざるをえなかった。

米軍の「ベトナム特需」は、輸出総額の一割から二割におよんでお
り、輸出総額の六割を占めた朝鮮戦争特需にくらべれば小さかったものの、
日本の経済成長を支える要因になっていたことは事実だった。

それには武器弾薬だけでなく、枯葉剤なども含まれた。横須賀や沖縄
が米軍艦隊の基地となったばかりでなく、1967年に羽田空港を利用し
た航空機総数のうち四割は米軍のチャーター機であり、ベトナムで負
傷した米兵の75パーセントが日本に送られて治療をうけた。日本は米
軍にとって、ベトナム戦争に不可欠な後方基地だった。

こうした事情のため、前述した1965年8月24日の『朝日新聞』の世
論調査では、戦争で「日本もまきぞえを食う心配がある」が54パーセ
ント、「心配はない」が17パーセントという結果がでた。1966年6月
1日、当時の椎名悦三郎外相は衆議院外務委員会で、日本に報復攻撃
が加えられないのは地理的条件のためだと言明した。自衛隊は有事即
応態勢をとり、1966年9月には南ベトナムに軍事視察団を送った。日
本からの軍需物資を輸送する米軍舟艇には、政府の斡旋で日本の要員
が乗りくんでおり、1967年10月までに9人の戦死者を出していた。

本多が会見した解放区の幹部は、日本からどんな支援をしたらよい
かという問いに、こう返答した。
「ありがたいことです。しかし私たちは、大丈夫です。やりぬく自信があります。
心配しないで下さい。
それよりも、日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどい
やり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのためになるのです」。

(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.588-589)

色平
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