近代五輪はその役割を終えた/上 オリンピックは帝国主義時代の競合だった 保阪正康

「祭典」の正体を問う:近代五輪はその役割を終えた/上 オリンピックは帝国主義時代の競い合いだった 特別寄稿・保阪正康

保阪正康さん=2020年6月10日、鈴木英生撮影拡大
保阪正康さん=2020年6月10日、鈴木英生撮影

現代史研究の第一人者、渾身の特別寄稿!

五輪は近代の日本社会のなかでどのような役割を果たしてきたのか。政治を超えてスポーツ競技のもとで一体感と平等を実現できたのか、それとも国威発揚と国民統合の場でしかなかったのか? コロナ禍に強行され、類を見ない腐敗が続出する東京五輪を見据えつつ、現代史研究の第一人者が世界的祭典の日本における意味に迫る。

人々の五輪への熱は冷め、スポーツイベントの問い直しが始まる

東京でオリンピックが開かれるのは、今回で3回目である。第1回は昭和15(1940)年に開催されることになっていたが、政治的な理由で開かれていない。具体的には日本の傀儡(かいらい)国家・満州国が参加することにアメリカなどが不満を漏らし、実際に選手や役員たちの派遣もないとすれば、開くことの意味がない、加えて日本国内では日中戦争に忙殺されている軍部が、オリンピックにかける予算があるならば、軍事に回せと圧力をかけた。

正直な話、日本にオリンピックを開く資格も条件もなかったのである。辞退するのは当然というべきであった。この辞退の姿は、軍事主導国家にあってオリンピックの精神は納得され難いとの意味を示しているとも言えるように思う。

東京オリンピックの2回目は、昭和39(1964)年10月であった。アジアで初めてのオリンピックであり、加えて太平洋戦争で徹底的に国土が破壊された日本が、高度成長の下、経済的に立ち直る姿を国際社会に披露するという思惑があった。私は大学を出て社会人になった時であり、しかも勤務先が東京・銀座の広告代理店で、このオリンピックの盛り上がりは直接肌で体験していた。私はいくつかの競技も入場券を手に入れて、見に行くこともできた。開会式や閉会式の盛り上がり、競技に熱中する観客、選手たち、そこにはスポーツに名を借りた金メダル第一主義の偽らざる姿があった。

アメリカとソ連の金メダル獲得競争は、確かに冷戦構造の反映というべき姿だったのである。勝って雄叫(おたけ)びをあげ、負けて悔し涙を流す姿を見て、いくつかの国ではオリンピックそのものが国威発揚の重大な手段になっている姿を確かめることになった。オリンピックは政治を超えて存在するというのは全くの噓(うそ)で、政治や軍事の一環にオリンピックも組み込まれているということが、またよくわかったのであった。

私は20代の半ばに差し掛かっていた時で、オリンピックは決して綺麗(きれい)事ではないというのはまさに実感だったのである。

そして今回は3回目である。コロナ禍の下、開催が危ぶまれている時に菅内閣は異様な精神状態で、この大会を行おうとしていることが感じられる。記者会見などで、この首相は自らが高校生の時に、東京オリンピックがあり、テレビなどで接戦勝ちした女子バレー、完走した長距離選手に強い印象を持ったと正直に語っている。無論こういうシーンは、当時の国民ならば大体が記憶している光景でもあった。菅首相が個人的な思い出を語るのは自由であり、おかしくはない。しかし、である。それをコロナ禍の下で開催の理由にするのは、牽強付会(けんきょうふかい)そのものである。ある意味では無責任と言えようか。

国民は五輪に動員され、組織される

あの64年の東京オリンピックのような興奮と陶酔を国内に再現させ、それをもって自らの権力基盤に利用しようというのは、政治をいいように動かした末に、墓穴を掘っているようなものではないだろうか。相次ぐ論外な辞任・解任騒ぎを見ても思うのだが、五輪のたちの悪い私物化という誹(そし)りは免れないだろう。東京オリンピックもその程度の存在に堕したということになろうか。

まずこうして3回の東京オリンピックをスケッチしてみて、最も明確にわかるのは次の点である。〈東京オリンピックは3回とも政治的思惑が先行するセレモニーである〉

それゆえに辞退があり、国威発揚の趣があり、そして権力保持の手段として利用されてきたのだ。その実態は、国民が巧みに動員され、組織され、さらに管理されてオリンピックの共演者にさせられていると言っていいであろう。その構図は3回のうち、今回が最も醜悪な形で歴史に刻まれることになるのではないだろうか。しかも今回は政治権力で抑えられる相手ではなく、ウイルスという「敵」がいる。政治的思惑が、この目には見えない「敵」を御しきることが可能なのかという大ドラマが演じられることになる。私たちはこのドラマの中でどのような役割を演じるように強制されるのであろうか。

実は今回の東京オリンピックには、さらに別の意味が課せられ、その大きな構図が隠されているのではないだろうか。あえて私は、隠されているという言い方を試みたのだが、それに気がつくことも重要である。

7月の半ば、旧知の新聞記者から電話がかかってきた。彼は、「最近の風潮ですが、コロナ禍の現代社会をすぐに太平洋戦争やガダルカナルと同じだとか、歴史の出来事と結びつけるが、これは無理があるのでは、と思うがいかがですか」という。実は同年代の物書き仲間と雑談している時にもこの話が出たことがある。少々安易すぎるのではないか、というのである。私もその感を深くしていただけに、こういう疑問はもっともだと思った。 実際、何か事あるごとに昭和史のあの事件と似ているとか、あの戦闘に擬せられるといった具合に、簡単に結びつける。これが実際に見事に当たっているのならそれはそれで例題にはなるであろう。しかし誤解しての喩(たと)え話なら、お笑いにしかならない。あるいは事実を曲げて喩え話をするのであれば、それは意図的な史実の改竄(かいざん)に通じる。意識的にか、それとも無意識にかそのような改竄を企図している者もいるというのである。 コロナ禍が予想を超えて進んでいる状態は、かつての日本の軍部が戦略、戦術を持たずにひたすら直線的に進んでいく様子と似ているとの喩え話はよくされる。コロナに対する対応策が場当たり的だという意味で用いられる。この場合、かつての日本軍は大局を読まずに小状況での官僚的な対応しかできなかったことが理解されていないと、コロナ禍の菅政権への批判にはならない。ところがある種のタイプの人たちは、かつての日本軍の作戦は大局に欠けているのではなく、相手の出方に応じて対応する組織なのだから、別におかしくはない、菅政権だって間違いではないと言ったりする。歴史の認識が基本的に欠けているわけだが、そういう認識の人が少なからず存在するというのだ。そういう人には、歴史への喩え話は通用しない。

五輪が歯止めのない混乱に至る可能性

従って、昭和史の喩え話を安易に持ち出しても、そこに歴史の本質への認識がなければ、通用しなくなる時代が来るのではないか、との不安を持つ人がまだ少数とはいえ存在するのは注目されることである。私が不気味だと思うのは、安易に歴史上のあの時と似ているとか、あの状況と同じであるというのが、史実を簡単に変えてしまう安易さに支えられている点だ。史実の改竄という意図が入り込むことを警戒するのであれば、こういう喩え話はむしろマイナスの要素が大きいことを理解する必要がある。

今度のオリンピックの状況を見た時に、日本社会は半数以上が疑問、ないし不安を持っていると言っていいように思う(各社のアンケートは大体そういう数字で一定している)。

天皇が不安を持っているとの宮内庁長官の発言は、天皇の意思を忠実に伝えているということであろう。それは誰が聞いてもそれ以外に聞こえるわけはない。しかし菅内閣は、「あれは長官自身の意見であり、天皇の意見ではない」と突っぱねている。そう言わざるを得ないというのが本音だろうが、しかしこうした受け止め方は極めて無理のある反応であろう。オリンピック開催の可否は、本来なら国民の総意という段階まで高まっていることが条件であると思う。

そういう高まりに全く欠けている時に、あえて開くとなればこれまでとは予想できない状況が考えられる。私はスポーツに特別に関心を持っているわけではないので、競技の具体的側面でどういう状況が生まれるかについては触れない。しかし過去2回の東京オリンピック(1回は開かれていないのだが)と今回の無観客のオリンピックを通して、次のような光景や責任問題が発生する危険性を内在していると言ってよいだろう。

1 各国の選手、役員、報道陣に対する共通のコロナ対策が徹底していないために、市内観光などが事実上自由になる。

2 各国独自のコロナ対策による多様性は、それぞれの国の性格、考え方により幅が広く、選手村の生活、競技そのものが混乱状態になる。

3 陽性に転じた選手、役員、報道陣の入院や治療について、独自に医師団を送り込んでいる国の医療と日本の医療機関の関係の曖昧さ(日本では他国の医師が勝手に治療できない)。

4 日本でコロナにかかった他国の選手、役員、報道陣が、訴訟を起こして損害賠償を請求する事態も想定されるのではないか。

5 日本人はテレビで観戦せよとの要請は、事実上東京都内を戒厳令下におきたいとの意思があり、市民生活は自己防衛に走らざるを得ない。

こうして想定される事態を並べ立てていくと、たちまちのうちにいくつもの光景が浮かんでくる。私は、ここに挙げた5項目のうち、意外に大きな問題になりそうなのは4の訴訟ではないかとの不安がある。こういう事態が続出したらオリンピックは歯止めのない国際的な混乱状態に至り、そこにナショナリズムが絡んで、むしろマイナスの現象が拡大するのではないかと恐れるのである。

先進諸国のみの充足の場として機能

しかしこうした状態をどれほど想定しても、すべて仮定の話である。私はむしろ確実に起こりうる次のような事態こそ、実は問題だと思う。

やはりこれも箇条書きにしてみよう。

1 近代オリンピックは今回の東京オリンピックをもって、実質的にその役割を終える。

2 競技者の競技結果について、ナショナリズムの炎が消えていく。

3 オリンピックに対する一般の熱が一気に冷めて、スポーツの問い直しが始まる。

私はこの他にも、オリンピックがこの2世紀余の歴史に果たしてきた役割を認めつつも、まだ大きな変化が起きるように思う。近代オリンピックは、結局は帝国主義時代のスポーツにおける覇の競い合いだったというべきだった。政治、軍事と切り離して、あたかも肉体の限界に挑む人類の挑戦のように語られ、スポーツ礼賛の思想が、あたかも純粋、かつ真の人間性の発露の如(ごと)く論じられてきた。しかし人々は、つまりはオリンピックは先進諸国の選手たちの充足の場として機能していたのにすぎない、と今回誰もが確認したのである。

東京オリンピックは、無観客で、選手だけがグラウンドで、球技場で、体育館で、そしてプールでメダルを争う。歓声もなければ勝者への拍手も、敗者への労(いたわ)りもない。選手たちには練習場にいるのと同じである。そうなって初めて、選手も、報道陣も、観客も、どのようにオリンピックに参加していたのかという現実を、私たちは知った。知ってみたらなんのことはない、オリンピックとは壮大なデモンストレーションであり、どれが欠けても意味を持たないことがわかったのである。

これは大発見であり、東京オリンピックの最大の歴史的貢献と言えるのではないか。

近代オリンピックは、いつかその役割を終える時が来るはずであった。それがコロナで、東京で、そして私たちの時代に来るとは思わなかったが、これまでの東京オリンピックの内幕を見て、その役が私たちに託されたと考えるならば、せめて近代五輪の精神への申し開きは用意しておかなければならないだろう。 この論は次回さらに、現実を踏まえつつ考えていくことにしよう。(以下次号)

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