社会:差別・搾取・殺戮 か 平等・友愛・平和 か?

仲間のあいだではけっして競争しない

「汚染の増大はどんな反公害の良心も追いつけないほど急である。
しかし、私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった。
それはほかの脅かされた人びとを勇気づけ屈従を拒ませるのみならず、
状況を正す努力へと向わせるものであった。
水俣の状況にかかわる正と悪とを振り返って、いま私たちはこの本
を通じて言葉と写真の小さな声をあげ、世界に警告できればと思う。
気づかせることがわれわれの唯一の強さである」

“MINAMATA”  W. Eugene Smith

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仲間のあいだではけっして競争しない
という、昔から労働組合思想の原点のうちの原点であった競争制御の考えかたが不可欠でしょう。
アメリカの労働組合などには、「この組合に入るもの、けっして仲間と競争せず」
ということを規約に書いているものがあります。
また、イギリス労働者の好みの言葉をつかえば、
「けっして競争するな、競争することは奴らに利用されることだ」ということですね。

この競争を拒否するという考えかたは、次に、上に引き上げるのであっても
下へ排除するのであっても、いずれにせよ仲間の選別を拒否するという発想につながってきます。
だからこう言うことができる。
労働社会のなかに入ってその黙契に生きる人びとは、働きぶりや稼ぎぶりや雇用機会
などを、まず助け合い、分け合う。
助け合うということは大切なことです。
失業や低賃金にみるように労働者が不幸なのは資本が悪い、体制が悪いという前に、
労働者は助け合う、苦楽をともにするわけです。
言いかたは悪いけれど、はじめはマゾヒスティックなまでに、まず自分たちの助け合いで
苦労を処理しようとするのです。
たとえば失業時のワークシェアリングはそれです。
しかし資本の論理は、もちろん、労働者に助け合いによって十分に生活を守ることを可能にする
ほど甘いものではありません。
しかし、その助け合いや協同作業が限界にきたことが痛感されるとき、それは労働者が
体制というものを意識するとき、そして助け合いを共にしてきた仲間がはじめて共闘を組む
ことができるときです。
助け合い、分け合い、それを経て共闘という図式が成り立つと思います。
別の言葉で言えば、労働社会のめざすところは生活の維持・改善ですが、それを
個人の競争によって果たそうとするのではない。
大切なのは〈平等を通じての保障〉ということです。

ところでこの平等主義は、ブルジョワ社会でも一般に用意することのできる平等主義とは
いささか趣を異にしています。
ブルジョワ社会でも保障することのできる平等とは、機会の平等、チャンスの平等です、、、

誤解をおそれずに言えば、労働社会の〈平等を通じての保障〉という場合の平等は、
このブルジョワ社会の常識からいうと「悪平等」に近いようです。
働きぶり、稼ぎぶり、雇用機会を助け合い、分け合い、共闘に至ると言う考えかたですから。
たとえば出来高給の職場で働いているイギリスの機械工は、ある鉄材を削る時間が5分なら5分
という協約を結ぶ。
その仕事にたいして10ペンスなら10ペンスというように賃金協約も結ばれる。
それをたとえば4分くらいで削ってしまってばりばり働いたら、すごく儲かりますよね。
機会の平等論から言えば、なにもおかしいことではないし、ブルジョワ社会の道徳は
よくやったとほめてくれる。
しかし強靭な労働社会・労働組合はそのような稼ぎすぎを仁義なきわざとして嫌うのです。
稼ぎすぎたぶんは没収して、組合費にしたり慈善事業に寄附したりしている場合さえあります。

「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」 熊沢誠

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誰がおらあに字を教えてくれたのか

おじ(叔父)が尾道の造船所で働いていたんで、おらあも工場に行って働こうと思うて、
おじに工場の働き口を聞いてもらったら、工場じゃ字の知らねえ読めねえ人間はだめじゃと言うて、
おじがおらあに言うて来て、「国、お前(め)えは一人前の漁師になるんじゃ。」と言った、、、

本を読むことも、字を書くこともわからず、親聞(新聞)を見ることもできんかった。
幸福ということを書くこともできんかったし、どんな暮らしが幸福か、かいもくわからんかった。
だもんで、戦争がどんなもんか一ツもわからんかった。
だから人様(ひとさま)が戦争へさ行ったら生活がよくなるちゅうんで、おらあとうとう戦争に
行って悪いことをしてしまった、、、

おらあは兵隊の中でも馬鹿にされ、、、中隊の馬当番兵に5年4カ月間おらあは使われ、
馬のように、奴隷のように使われ、人間を殺すことが何ともないようになってしまった、、、

悪いという字も良いという字もわからんかった。
おらあみたいなもんがよけいおって、盲にされて、戦争に行ってしもうて、みんな悪いことをした、、、

おらあ中国に来て不満もあったが、当局の人たちはほんとうに親切にしてくれ、何から何まで
教えてくれました。
過去学校に行ってないので、おらあは勉強したかった、、、

いまおらあは、おらあの手で思ったことを書くことができるようになった。
生まれてはじめて、おれの手で書いた手紙を、中国から家に出した、、、

昔がどんな世の中で、いまはどんな世の中であるかがわかるようになった。
むかしぁ遊んで食って、銭を儲(もう)けることしか考えんかったものが、、、

一生懸命、山や畑で真っ黒うなって働いていた中国の人たちを殺し、盗人(ぬすっと)
をすることしか教えんかった。
おらあにゃ、戦争なんかなんの徳(得)もなかった、、、

これもみな、おらあが殺した中国の人びとの家族の方々から教えられ、もう二度とおらあ、
あのためにならん戦争は真っ平ご免だ、、、

おらあほんとうに悪いことをした。
おらあはほんとうに済まんことをした。
いまおらあが自分の考えを、白い紙に書けるようになったことを考えると、おらあ何と
言ってええか、言い現わしようのねえ、涙がこみあげて来てしようがねえ、、、

おらあこの万年筆で、何も彼もわかるようになった。
おらあこの万年筆を、子供のうちから漕いだ舟のロやカイのように愛し、
一生懸命勉強しよう。
おらあいまほんとうに楽しい日々を送り、うれしゅうてたまらん。

松本国三(歩兵・陸軍兵長)

本籍地 広島県尾道市吉和町 出身階級 漁民 学歴 なし 職業 漁業
所属部隊 旧三十九師団二百三十二連隊一大隊二中隊 階級 兵長
被補地年月日 東北四平 1940年8月21日

中国における日本戦犯の告白 「侵略」 新読書社 1958 (序文、風見章)

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> 世界中で貧富の差はますます拡大し、団結を呼びかけられたはずの労働者は
> ますます分断化され、孤立化し、世界の周縁に追いやられている。
> マルクスの掲げた理想は、ただ一つとして実現されていない、、、
> わたしがいいたいのは一言である。
> 日本共産党はけっして名前を変えてはならない。
> 自分たちが神聖な党であったという記憶を、いつまでも保持してもらいたいのだ。
> 神聖な党。
> そうなのである。
> 戦前にも戦後の後期占領時代にも、日本共産党は厳しい弾圧を受け、
> 党員は地下に潜行したり亡命したり、拷問を受けて長く獄中に囚われてきた。
> 多くの知識人が、あたかも隠れキリシタンのような殉教の人生を生きた、、、
> 今どきの国会議員は、離党にも新党結成にも何ら躊躇(ためら)いを見せない、、、
> だが共産党は違うのである。
> 何しろ百年だ。
> かつては、たとえ離党した後も党員の内面を呪縛しその人生を屈曲させていった
> 共産党、、、
> 共産党は多くの言葉を廃語にしてきた。
> 「プロレタリア独裁」も「暴力革命」も「前衛」も、もはや口にされることはない。
> かつて天皇制が神聖であったように、神聖な名前のまま残しておいてほしいと思う。

「改名はあってはならない」 四方田犬彦 週刊金曜日 22年1月14日

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古くて新しい「市民社会」概念

理論史的にいえば、「市民社会(civil society)」という概念は、18世紀の
「スコットランド啓蒙」の時代にアダム・ファーガソン(Adam Ferguson)によって
初めて使用された言葉だとされている。
しかし他方では、具体的事例として言及されるのは古代ギリシャ・ローマ時代の都市国家
が最も古い。
また、わが国でいえば、第二次世界大戦直後に、本書でも取り上げる大塚久雄、丸山眞男
らの「市民社会青年」と言われたリベラル派知識人によってクローズアップされたが、
「市民社会」=「ブルジョワ社会」としてこれを弾劾するマルクス主義の強い影響もあって、
「市民主義」者イコール「市民社会主義」者では必ずしもない、というわが国独特の複雑な
事情が絡んだ展開となった。
つまり、1960年の安保闘争の高揚の中で、「市民主義」は学会から社会運動のレベルへ
浸透しはじめたが、「市民社会」概念そのものは、高名な市民派の代表者たちを含めて
多くのリベラル知識人にとってアンビバレントな態度で受けとめられる言葉のままであり続けた。
そして、高度経済成長の果てに訪れた80年代のバブル経済の中では、表面的な経済的繁栄
への謳歌とあいまって起こった全般的保守化の波に飲み込まれそうになったのを、平田清明らの、
広い意味でのグラムシ派知識人と一部の市民運動の活動家たちの努力によって生き続けたのち、
90年代に入って、世界的な規模での「市民社会」論ルネサンスの中で甦った。
とりわけ、阪神・淡路大震災を契機として爆発した「ボランティア元年」の状況が
特定非営利活動推進法(NPO法、1998年成立)という日本最初の「市民立法」につながった
経過の中では、これを推進したNPOの代表者たちは、こもごもに「日本における市民社会の確立」
を語った。

これが、古くて新しい「市民社会」概念の歴史であり、この、古くて新しい人文・社会科学
のキーワードが今、この新しい世紀の冒頭での深刻な危機状況の中で、これまでになく、
そして世界史上はじめて世界的な広がりで人々の注目を集めているのである。

山口定 「市民社会論」 2004  序章 「新しい市民社会論」の台頭 冒頭より

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市民社会(civil society)という言葉は、マイケル・ウォルツアー
(Michael Walzer, “Toward a Global Civil Society” 1995)
が指摘しているように、20世紀後半のソ連・東欧圏の混乱・崩壊期に、
社会主義や共産主義と相容れない言葉として、また資本主義の優位性を示す
言葉として、中欧・東欧の反体制派の知識人たちが復活させた言葉であり、
西欧社会では、スコットランド啓蒙以来、またヘーゲル以来、
「事情通の人々には知られてきたのだが、、、ほとんど他の誰からも注目を
浴びることがなかった」ことからすれば、戦後から1960年代にかけての
日本における「市民社会論」の隆盛は特異な世界史的事実であるかもしれない。

鈴木信雄 スミス・マルクス・グラムシと「市民社会」 「市民社会」と共生 2012

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「コブザール」出版前後のシェフチェンコ  藤井悦子

タラス・シェフチェンコ(1814から1886)が詩集「コブザール」初版
を出版したのは1840年、作者が26才のときであった。
ウクライナの農奴の子として生まれ、幼くして両親に死別したのち、
地主の下僕となった彼が、主人に連れられてペテルブルグに移り住んだのは、
1831年の1月である。
1838年の春には農奴身分から解放され、2年後に詩人としてのデビューを
はたしたとき、彼は才能ある新人として将来を嘱望される美術学校の学生でもあった。

「コブザール」には8篇の詩が収められている。
無題の序詞〈わたしの詩(うた)、わたしの心の詩よ〉、〈ペレベンヂャ〉、
〈カテリーナ〉、〈はこやなぎ〉、〈小曲〉、〈オスノヴャネンコに〉、
〈イワン・ピドコヴァ〉、〈タラスの夜〉である。
これらの作品は、ロシヤ語の表記法を用いてはいるが、
すべてウクライナ語で書かれたものである。
100頁あまりの詩集が、ペテルブルクの同郷人のサークルと故郷
ウクライナの読者を中心に、熱狂的に迎え入れられたのはなぜであろうか、、、

「B.A.ジュコーフスキーへ、1838年4月22日の記念に」
献げられた〈カテリーナ〉は、8篇中でもっとも長く、
詩集の中心に据えられている。
この日付は、シェフチェンコが農奴から解放されて自由を得た日であった。

恋せよ 黒い眉の娘たち
だがロシヤ男は相手にするな。
ロシヤ男は他国の者で
おまえたちに不幸をもたらすから。

という出だしのこの長篇詩は、ウクライナ人の娘カテリーナがロシヤ人の将校
を愛して私生児を生み、両親の家からも追い出されてついには子どもを棄てて
池に身を投げる、という物語であり、「棄てられた女」をヒロインとする彼の
一連の作品のはじめを飾るものである。
シェフチェンコは生涯にわたって、「棄てられた女」を作品の題材として追い続け、
晩年の叙事詩〈マリヤ〉に至って、その思想的深さと芸術的表現の美しさ
において並び立つもののない、独白の境地を拓くのである。
〈カテリーナ〉は、筋書の点では、同じような運命の女性を主人公とする
当時の文学作品とくらべてきわ立った独自性があるわけではない。
しかし、誘惑する男をロシヤ人将校、棄てられた女をウクライナ人の農民の娘
とすることによって、作者はこの作品の中にある明確な意図をこめている。
そして作者の意図は、物語の展開の合問に挿入される、人生論的瞑想
という形で読者に伝えられるのである。

カテリーナが両親の家を追われて、息子のイワンとともに恋人を探しながら
モスクワヘの途を迫るとき、作者はこう語りかける。

なんと大きな不幸に見舞われたことか よく見ておくのだよ 娘たち。
からかった末に ロシヤ男はカテリーナを棄てたのだ。
彼女が誰とたわむれたらいいのか 不しあわせな眼にはわからない。
そして人びとにはわかっていても 憐れんではくれない。
「自分を尊ぶことのできない そんなふしだらな娘なら
身を滅ぼして当然のこと。」
愛する娘たちよ 身を慎しむがよい。
ロシヤ男をたずねるという 不幸な目にあわないように。

https://bit.ly/3Ki9PVx

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「敵意に満ちている」社会の中から何ゆえ、「打富済貧」を掲げる緑林の好漢や、
理想社会の実現を目指す共産主義者が出現したのかについて答えるべきだろう。

中国人の指導者を何人かピックアップすれば、どこから選んでも、彼らは衆に抜きんでている
ことを特徴とする。
どこかに傑出したものを持たなければ指導者ではない。
そこが日本における指導者がおしなべて調停者タイプであることと好対照をなす。

彼が素寒貧であっても、金持ちであっても、地位があろうとなかろうと、
誰にも開かれている衆に抜きんでるチャンスがある。
それは「打抱不平」であること、
つまり他人が不公平に扱われることに我慢ができず、あれこれ世話を焼くことである。
それには勇気があるか、肝っ玉が太ければ十分である。

安穏に暮らしたい家人にとって「打抱不平」な人間ほど迷惑な存在はない。
なけなしの金をはたいて隣人を助けたり、顔役から言いがかりをつけられた友達に加勢したり、
もめ事続きで家の者は生きた心地がしないであろう。
が、それにもかかわらず、中国人の間に、この「打抱不平」な人間に対する強い憧れを見ること
ができる。

あなたがもし「打抱不平」な人間であり、収穫した米なり、落花生なり、大豆なりを金に換えよう
と市に持っていったとする。
市では場所代、手数料、諸税の取り立て、秤(はかり)のごまかし、地回りの嫌がらせ
など数々の困難が待ち受けている。
同じように収穫物を持ち込んだ貧しい農民が、買い手に難癖をつけられひどく低い値を言われ、
売るに売れず困っている。
そばで見ていた正直そうな農民が一言、二言口を挟んでも無駄であった。
「打抱不平」なあなたは見て見ぬ振りはできず、思わず声をかけ、結局彼の肩を持ち、
仲買人とひとしきり口論し、周りの農民たちも、そうだそうだと応援し、買い手はしぶしぶ
まっとうな値段をつけて引き取り一件落着となる。
そのためには勿論、あなたは少しばかり議論に強くなくてはならないだろうし、
相手の迫力に負けないぐらいの気迫と腕っ節が必要である。

市の帰り、あなたがた三人は居酒屋で一杯引っかけながら話し込むうちに、隣村に住み
年もそれほど離れていない各々が、わずかな土地しかなく、頼る親戚もないことを知る。
そこで、改めて一席設け、同じ日に生まれなかったけれども死ぬ時は一緒に、、、と誓うことになる。

これは二十年前、あるギルド論のなかで、関羽が商業の神であり、財神であること
を読んで以来の疑問に答えようと、本書を書いている途中、ふと思いついた筋立てである
(もっと説得的な筋立てがあるのかもしれない)。
問題は市の公正さに関わっている。
やはり信頼とか信用の問題なのである。
市に頼り、市との取り引き、市との関わりのなかで生きていかざるをえない農民、手工業者、
荷担ぎたちが、関羽をおしたて、絆を強めることによって、より公正な扱いを市から期待する
ことができただろうからである。
また、市の側が関羽を祀ることは、市に出入りする商人や農民の期待が報われるであろう
ことを示唆するものであった。
少なくとも、そのような期待に応える振りをしてみせることになった。

敵意や不信に満ちた世界だからこそ、「打抱不平」な人間が一目置かれたり、高い声望
を勝ち得ることができる。
それゆえ、少ないながらも、そのような人間に育つ輩が確実に出てくる。
現実には、周囲から迷惑がられたり、なりそこねた者たちが嘲笑されたりしても、
「打抱不平」な人間の価値は失われない。

清代の会党を支えていたのは、このような「打抱不平」な人間たちであろう。
民国期の共産主義者、とくに最も地下闘争の困難な時期に党に加わった農民の多くが
この種の人々であった。
皮肉なことに新中国三十年の「理想社会」はこの種の人々を一掃した。
もう首が回らないほど金に困った男が党の口利きで借りようとしたところ、
党はその必要なしと判断した。
困りはてた男に金を貸した元資本家は、党の政策に反対し、資本主義の復活を企てた
として批判されてしまう。
また、小学校教師となった青年が誰に対しても一生懸命教えて評判となった。
その結果、党と大衆の支持を争っているとして恫喝を受けた。
このような話は数え切れないほどである。

国家や党中央が、飯の手当と引き替えに、個々人の心の中まで支配しようとしたシステム
は破綻した。
飯は自分で見つけるかわりに、善意をどう使おうとそれぞれの勝手となった。
人が「打抱不平」な人間になり得る社会が少しずつ戻ってきている。
が、たとえそのような社会が戻ってきたとしても、「打抱不平」な人々が明清期や民国期
のように重要な役割を果たすことができるのかどうか、今のところ何とも言いようがない。
もし風通しのよい社会がつくられれば、歴史という舞台における彼らの役割は
相対的に小さなものになるに違いない。
逆にもし、不公平で抑圧的な社会が続くとすれば、
相変わらず彼らの活躍する余地が存在し続けるということになろう。

「中国革命を駆け抜けたアウトローたち 土匪と流氓の世界」

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上田藩内の浦野組山間部、現在の青木村からは、藩政期を通じて
5件の百姓一揆が起った。
これは確かに、尋常なことではない。
身分制の厳しい封建制下の百姓一揆についてみれば、その首謀者となるか、
呼応してその他一同として参加するかでは、処刑内容に決定的な差があった。
首謀者となれば、その成否当否のいかんにかかわらず、必ず死刑に処せられる
ことは初めからわかっていたことである。
したがって首謀者(とくに全藩一揆の)は、まず死刑を覚悟のうえで、しかも
綿密な計画のもとに、農民大衆を動員する指導力を持たなければならない。
またそこには、己れ一身をなげうっても、多数農民の苦境を救うことが、
人間としての正しい道であり、神々の照覧によっても正義と認められるであろう、
という確固たる信念と価値意識がなければなるまい。

横山十四男 「義民 百姓一揆の指導者たち」

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優越した軍事力にたよって安全を保つという国家の政策が進んでいくと、国の外では地球上可能な要点に戦略
的軍事基地を設け、将来の味方を武装させて経済力を強めることに夢中になる。
一方、国の内部では青年を軍隊化し、市民の忠誠心を警察力で厳重に監視することになる。
そして独自の政治的見解をもつ人は圧迫されて、公衆はラジオ・新聞や学校で巧みに一定の考えかたを吹きこ
まれ、軍事機密という名のもとに一般の報道の範囲はますます制限される。

A. Einstein の警告 @「平和声明」 1950年2月 テレビ放送

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「同じ日本人のくせに、ばかも休み休み言ってくれ。
おれたちは四半世紀にわたって異民族の支配を受けてきたんだ。
もう疲れた。
これ以上日本の国のためにアメリカの軍事基地を背負い続けるわけにはいかない。
さあ議論をしていないで、本土の仲間のところに基地を渡すぜ。
そうだなあ、本土のどの県に沖縄の基地をもっていってもらおうかな。
まあ、県民の皆さんには申しわけないが、あなたがたが熱心に投票し、国会に送りこんで首相に育てた佐藤栄
作さんが山口県のご出身で、おまけに愛国心を強調され、日本にアメリカの基地を置くべきだと主張されてい
るんだから”山口県”に引きとってもらいましょう、、、
われわれはもう疲れたんだ。
どうか同じ日本人のよしみで、基地を本土に引きとってください、、、
B52の爆音も聞かずに、安らかに眠らせてくださいよ」

「眉間尺」の刃  「1968年」 むのたけじ・岡村昭彦

ー----
色平
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