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■戦闘によらぬ犠牲者1400万人の声 by limitlesslife
(書評)『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(上・下)
朝日新聞 2015年12月6日
■戦闘によらぬ犠牲者1400万人の声

史料に埋もれて数値や史実を探りあてた歴史家は、そこからはい出して世に何を問う
のか。本書は、「犠牲者」として丸められた数値を「人に戻す」意志をもって、「大量
殺人政策」を考察した戦史である。「数」をなお焦点に政治のかけひきが続く東アジア
を思うと、研究者として、人間として、過去に向き合う著者の姿勢が強く印象に残る。

ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連は、第2次世界大戦が終わる1945
年までの12年間で、1400万人の命を奪った。殺戮(さつりく)の舞台となった「
ブラッドランド(流血地帯)」は、いまの国名でいえば、ポーランド、ウクライナ、ベ
ラルーシ、バルト諸国とロシア西部を指す。

ここには、戦闘による死者は含まれていない。ウクライナでソ連に飢えさせられて亡
くなった300万人をはじめ、政策による餓死や銃やガスなどで殺された民間人と戦争
捕虜たちである。本書によると、第2次大戦中の独ソの戦死者の合計を上回るという。
救いのない現場を、これでもか、とたたみかける。

ナチスによる惨劇の象徴として注目が集中しがちな強制収容所の内側の「ホロコース
ト(大量虐殺)」から、そのソトにあった死へと視界をひらかせる。国家や民族ごとに
仕切られてきた歴史を綴(と)じ合わせることで、各国の数字の誇張や歪曲(わいきょ
く)を暴く。権力がもつ残虐性と、時勢が求める「真実」に寄り添ってしまう人間の弱
さを見せつける。

国家の暴虐の記述にはさみこまれた、犠牲者の手紙や日記、教会での最期の言葉が記
憶にこびりつく。受難者の立場をめぐる民族や国家の間の「競争手段」に使われ、死者
が匿名の数値の一部となってしまうことを阻もうとしているかのようだ。

歴史が「点」から「面」へと仕立てなおされていく。闇から現れた史実の重みにふれ
るとき、思いは「人」へと向かった。

評・吉岡桂子(本社編集委員)

布施由紀子訳、筑摩書房・上3024円、下3240円/Timothy Snyd
er 69年生まれ。イェール大学教授。

ブラッドランド(上・下) ティモシー・スナイダー著
ナチとソ連の虐殺、全貌に迫る
日本経済新聞朝刊2015年11月29日付

1933年から45年まで、ナチ・ドイツとソ連は、ヨーロッパの中央部でおよそ1400万人を
殺害した。スターリンは、33年にウクライナを飢餓に追い込み300万人以上を殺した。3
7年から38年には大粛清(テロル)で70万人を銃殺した。39年に独ソに分割されたポー
ランドでは20万人が殺された。独ソ戦を始めたヒトラーは、レニングラードを包囲して
400万人を餓死させた。さらに、45年までに銃あるいはガスで500万人以上のユダヤ人が
殺された。

これらの死者はすべて、戦争ではなく、政策の犠牲者である。1400万という数字に兵士
は含まれておらず、ほとんどが女性か子供か労働者である。一番の死因は餓死であり、
次いで銃殺、ガス殺となる。

このように、ヒトラーとスターリンの覇権主義政策が重複し、独ソ戦の戦場となり、ソ
連の秘密警察とナチ親衛隊が集中的に活動した地域は、文字通り「流血地帯(ブラッド
ランド)」となった。ポーランド、バルト3国、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの西
部国境地帯がここに入る。

それまではホロコーストがもっぱら注目を浴び、ユダヤ人犠牲者が他の犠牲者と切り離
され、「流血地帯」全体の歴史が描かれてこなかった。

同様に各国・各民族の個別の歴史も大量殺害の全体像を明らかにはしない。

著者は、明示されているだけでも17の文書館をめぐり、鉄のカーテンあるいは国境によ
って分断・封印されてきた「流血地帯」の歴史を紡ぎあげていく。犠牲者側と加害者側
の双方の記録を駆使し、アーレントら著述家の観察も効果的に引用する。日本の動きが
独ソの政策に与えた影響にも言及され、杉原千畝も歴史の証人として登場する。

先に翻訳された好著『赤い大公』もそうだが、著者の文章構成力は素晴らしく、その多
言語を操る語学力にも舌を巻く。しかし、私たちが最も学ぶべきは、著者の歴史に向き
合う姿勢だろう。夥(おびただ)しい非業の死と戦後におけるその歪曲(わいきょく)
を綴(つづ)ったのち、著者は終章「人間性(ヒューマニティ)」で次のように本書を
締め括(くく)っている。

「ナチスとソ連の政権は、人々を数値に変えた。(中略)われわれ人間主義者(ヒュー
マニスト)の責務は、数値を人に戻すことだ。それができないとすれば、ヒトラーとス
ターリンは、この世界を作り変えただけではなく、われわれの人間性(ヒューマニティ
)まで変えてしまったことになる」

2010年に出版され、世界中で賞賛(しょうさん)を浴びてきた本書が、このたび日本語
で読めるようになったことを心から喜びたい。

(成蹊大学准教授 板橋 拓己)

『ブラッドランド 上・下』 ティモシー・スナイダー著
[レビュアー] 松木武彦(考古学者・国立歴史民俗博物館教授)
1400万人虐殺 「合理」性を解く
読売新聞 2015年11月29日
読書とは、本来楽しいものだ。たくさんの読者にその楽しさを味わっていただくために
、新聞の書評はある。

その点から言えば、この本は書評するに辛(つら)い。圧倒的な恐怖と不快、人間その
ものへの不信感や絶望を呼び起こすばかりで、どこにも楽しさはない。

タイトルの「ブラッドランド」は、流血地帯と訳される。「血の土地」と直訳するとも
っと生々しい。現在のポーランド、バルト三国、ベラルーシ、ウクライナの各国にほぼ
当たる地域で、旧ソ連とナチス・ドイツにより東西から蹂躙(じゅうりん)された。

スターリンとヒトラーが覇権を競っていた1933年から45年までの12年間、ここ
で約1400万人が、戦闘以外で命を強奪された。有名なアウシュビッツでのユダヤ人
犠牲者は、数でいえば全体の十分の一以下。同じような規模の殺戮(さつりく)が、ユ
ダヤ人のみならずウクライナ人やポーランド人やソ連軍捕虜などに対して、ガス室のみ
ならず計画的飢餓や銃殺といった方法で、ナチス・ドイツのみならずスターリン政権や
その傀儡(かいらい)国家、ときにはそれぞれの民族の同胞たちの手によって次々と行
われたのである。本書は、各国の膨大な資料の分析によって、その殺戮の一つ一つを白
日の下に生々しくさらし、何が起こったのかを余すところなく描き出した大作だ。

政策として飢饉(ききん)を引き起こしたウクライナで500万人を殺したソ連。でっ
ち上げた陰謀のとがで20万人のポーランド国民を殺し合ったソ連とナチス。戦場で望
めぬ勝利の代償としてユダヤ人の殲滅(せんめつ)をはかったナチス。

これらの殺戮を、強権国家の狂信的所業として理解の外に追いやるような論調に、著者
は決して与(くみ)しない。支配者や、その官僚たちや、実際に手を血に染めた末端の
実行者たちは、それぞれの論理でその所業を「合理」化した。政権保持のため、面子(
メンツ)のため、保身のため、生活のため……。どんなに不快でも彼らの「合理」性を
解き明かして組み立ててみることから、過去の真実群が浮かび上がってくる。

死の「合理」化は、殺す側だけでなく、殺される側の民族にとっても、その死に意味や
価値を与えることにつながった。国家の勝利のために奪われた命が、今度は民族の旗印
となる。だが、国家や民族の名において意味や価値を与えられた殺害や死は、国家や民
族がある限り、またぞろ繰り返されるのだ。

自由、平等、多様性。さまざまな国家や民族の共生を謳(うた)ったきれいごとの知恵
なら、ずっと前からごまんとある。かほどの地獄を体験してすら、その繰り返しを今な
お断ち切れぬ人類の知恵の浅さと弱さに暗然とする。こんな絶望の連鎖に、歴史研究者
として、人間としてどう立ち向かうのか。

ブラッドランドで命を強奪された1400万人は、みんな人生の半ばにあり、思い出が
あり、愛する人がいて、一人一人名前があった。おぞましい殺戮の場面で、死にゆく彼
ら彼女らの名前を著者はできるかぎり記していとおしむ。歴史研究者としては犠牲者の
数値を正確に明らかにすること。しかる後に人間主義者(ヒューマニスト)としてその
数値を「人に戻すこと」。最後の著者の宣言に少しだけ心が救われる。書評するに辛い
、だが何としても書評せずには終われぬ本だ。布施由紀子訳。

◇Timothy Snyder=1969年生まれ。歴史学者、米イェール大教授。
専門は近代ナショナリズム史、中東欧史、ホロコースト史。著書に『赤い大公』など。

まつぎ・たけひこ 1961年生まれ。考古学者、国立歴史民俗博物館教授。著書に『
未盗掘古墳と天皇陵古墳』など。

筑摩書房 上=2800円、下=3000円

『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』
訳者あとがき by 布施 由紀子
筑摩書房筑摩書房2015年10月25日

20世紀の半ば、人類史上最大の集団暴力が、ポーランドからウクライナ、ベラルーシ、
バルト三国、ロシア西部にまたがる広大な地域を襲った。スターリンとヒトラーが同時
に政権の座についていた1933年から45年までの12年間、この地で独ソ両国の大量殺人政
策が重複して進められたのだ。スターリンもヒトラーも、自分の思い描く国造りのため
、邪魔者を排除しようとした。ふたつの大国の狭間で、全体主義国家の思惑がぶつかり
合い、多くの尊い命が奪われた。

東欧史を専門とするイェール大学のティモシー・スナイダー教授はその事実に着目し、
この地域を”流血地帯(Bloodlands)”と名付けて調査に乗り出した。数年をかけて東欧
諸国の公文書館をまわり、膨大な資料をあたって、国境で分断されてきた”地域”として
の歴史を掘り起こしたのだ。そして、独ソの政策によってこの地で殺害された民間人、
戦争捕虜の総数が(少なく見積もっても)1400万人にのぼることを突きとめた。

1930年代の主たる殺戮場はソヴィエト西部だった。ウクライナではスターリンが引き起
こした人為的な飢饉で約330万人が命を落とし、その後の大テロル(階級テロルと民族
テロル)でも30万人が銃殺された。1939年以降は独ソが共同でポーランドを侵略し、ポ
ーランド国民20万人を殺害した。1941年にはヒトラーがスターリンを裏切ってソ連を侵
攻、ソヴィエト人戦争捕虜やレニングラード市民など420万人を故意に餓死させた。さ
らに、1945年までに、占領下のソ連、ポーランド、バルト諸国でユダヤ人およそ540万
人を銃殺またはガス殺し、ベラルーシやワルシャワのパルチザン戦争では報復行動など
で民間人70万人を殺害した。

それで締めておよそ1400万人。ここには戦闘による死亡者はいっさいふくまれない。そ
れでも、第二次世界大戦中の独ソの戦死者数の合計を200万人も上まわるという。しか
もこの一帯では戦後も、ドイツ人への報復や民族浄化の嵐が吹き荒れて、多大な犠牲が
生まれたのだった。

著者はそうした殺戮劇のひとつひとつを丹念に記述していく。信じがたい数値を示しつ
つ、犠牲者の遺書や手紙や日記、加害者側の記録や手記も引用し、被害者が生きた証を
伝える配慮もしている。そこには著者の静かな怒りも感じられるようだ。しかしどの物
語にも救いはない。あるのは、想像を絶する苦しみと恐怖のみだ。アウシュヴィッツの
強制収容所では100万人のユダヤ人が殺されたが、著者はそれでさえ、ホロコーストの
一部でしかないと言う。モロトフ=リッベントロップ線以東の地域では、はるかにすさ
まじい残虐行為が繰り広げられていた。しかしその事実の多くは大戦終結後におろされ
た鉄のカーテンによって封印された。ユダヤ人以外の人々も差別を受け、生命軽視の対
象となった。だが時と場合が異なれば、彼らもまた復讐の鬼と化し、殺戮に手を染めた
のだ。

率直に言って、読むのはつらい。人はこうも残忍に、利己的になりうるのか。こんな理
不尽な生があってよいものか。あとからあとから繰り出される犠牲者数の膨大さは息苦
しいほどだが、徐々に見慣れてくる自分が空恐ろしくなってきたりもする。しかし加害
の歴史を持つ国に生まれた者としては、読み進めずにはいられない。真実を追い求める
著者の強い信念がそうさせるのだろう。この記録との向き合い方を語る最終章の『結論
──人間性(ヒユーマニテイ)』は圧巻だ。

本書がアメリカで刊行されたのは、2010年秋のことだった。新たな観点からヨーロッパ
史を語った試みとして注目を集め、その後五年のあいだに30カ国以上で翻訳出版された
。ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙、デイリーテレグラフ紙などがこぞっ
て書評欄で取り上げたほか、数多くの紙誌が年間ブック・オヴ・ザ・イヤーの一冊に本
書を選出した。なかでもエコノミスト誌は、「歴史に詳しいと自負する読者も、彼の洞
察、対比には何度もはっとさせられるだろう」と太鼓判を押し、「みごとなまでに説明
と記録に徹し、公正に、しかも思いやりをもって誰に何が起きたのかを伝えている」と
評価した。本書はまた、すぐれたノンフィクション作品に贈られるラルフ・ワルド・エ
マーソン賞、ヨーロッパの和解に貢献した書籍に授与されるヨーロッパ理解ライプツィ
ヒ図書賞、ハンナ・アーレント政治思想賞など、権威ある12の賞を受賞した。

ティモシー・スナイダー教授

ティモシー・スナイダー教授は1969年生まれ。イギリスのオックスフォード大学で博士
号を取得し、およそ10年のあいだ、パリ、ウィーン、ワルシャワなどで研究活動に従事
した。イェール大学では2001年から教鞭をとっている。語学に堪能で、ヨーロッパの言
語のうち、5カ国語を話し、10カ国語を読むことができるそうだ。本書をふくめて6冊の
著書があり、そのうち最新作のBlack Earth: The Holocaust as History and Warning
(Tim Duggan Books)は、2015年9月に刊行の予定だという。本業のほか、エッセーや
評論の執筆に、講演にと忙しい日々を送っているようだが、ここ一年ほどは、ウクライ
ナ問題について発言を求められる機会が多いらしい。

ロシアのプーチン大統領は、2008年に「ウクライナは国ではない。領土の大半はロシア
に属する」と述べて当時の米国大統領、ジョージ・W・ブッシュを驚かせたと伝えられ
る。スナイダー教授は今年の6月、自由欧州放送(Radio Free Europe/Radio Liberty)
のインタビューに応じ、ロシア政権のこうした姿勢について次のように語った。「わた
しはロシアがみずから選んで孤立していることを憂慮しています。自分たちはつねに─
─1000年にもわたり──世界中の敵対行動の標的になってきた、というような歴史認識
を持っていたら、他国と協力関係を築くのはむずかしいでしょう。ロシアではこんな戦
争プロパガンダを耳にします。誰もがロシアを標的にして陰謀をたくらんでいる、ウク
ライナはそうした世界規模の陰謀の手先なのだ、というのです。ロシアは逃げ場がなく
なるような状況を自分で作り出している。長期的に見れば、ウクライナよりもロシアの
ほうが心配です」

2014年3月のロシアによるクリミア併合以来、ウクライナ東部では親ロシア派武装勢力
と政府軍との戦闘が続き、子供をふくむ多くの民間人が犠牲になっている。ポーランド
もバルト三国も警戒を強めていると聞く。これだけの歴史を背負った人々の胸中には、
わたしたち日本人にはうかがい知れない危機感と覚悟があるのだろう。穏やかな日々の
訪れを願わずにはいられない。

2015年8月 布施 由紀子

MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace