沖縄返還時の日米密約をめぐる情報公開訴訟で、最高裁は7月、「文書が存在しない」という政府の主張を認めた二審判決を追認し、不開示が確定した。

判決は文書が作成された事実を認めながらも、国が存在を否定した文書の開示を求める場合は請求側に存在を立証する責任があるとしたもので、新聞の社説には「政府の無責任な姿勢を黙認したに等しい」(毎日)「情報公開の流れに逆行」(東京)「情報公開を狭めることにならないか」(朝日)「情報公開のハードルが、これまでよりも高くならないだろうか」(読売)との批判や疑問が並んだ。

私は6月まで民放で報道の職にあったが、主権者である国民に非現実的な立証責任を課し、国民共有の財産である公文書の隠蔽(いんぺい)ないし廃棄という背信行為を認めた今回の判決にはあぜんとさせられた。

最高裁は過去にも、高度の政治性を有する行為は司法審査の対象外であるという統治行為論や、一票の格差を違憲としながら選挙を有効とした事情判決を採用するなど、行政や立法に慎重な姿勢を示してきた。こうした司法の消極主義には賛否両論があろうが、そこには一定の法理が存在していたとも言えよう。

今回の判決がどれほど「国民の知る権利」を制約することになるのかは定かでないが、憲法の番人たる最高裁が憲法で保障された国民の権利を侵害する(少なくとも侵害を助長しかねない)不条理をどう考えればよいのか。国と決定的に対立しかねない場合も、最高裁に毅然(きぜん)とした判断をしてもらうにはどんな条件が必要なのだろうか。

最高裁に関しては、かねて違憲立法審査権を十分に行使できていない、裁判官の国民審査が形骸化している、との指摘がある。衆参両院の憲法審査会などでも、憲法裁判所の新設や最高裁裁判官の任命を国会の同意人事にすべきだとの議論がなされている。現政権は集団的自衛権の憲法解釈の変更を強引に進めているが、集団的自衛権が実際に行使されれば違憲訴訟の提起は確実であり、司法の審査機能の強化は喫緊の課題だ。

重要なのは、最高裁が時の政府の意向に配慮せざるを得ないようなシステムを改めることである。そのためには、最高裁裁判官の任命過程を透明化し何らかの形で国民の意向を反映させることや、不信任に×印をつけるだけの形骸化した国民審査制度を見直すことが求められる。司法を主権者たる国民の監視下におくこと、つまり「司法の民主化」が必要だ。

(さとうじゅんじ 日本マス・コミュニケーション学会会員)