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「『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあった」 by limitlesslife
October 28, 2016, 1:52 am
Filed under: 天皇(実録、・・・)
三笠宮さまご逝去 平和願い歴史探究 最後の皇族将校
毎日新聞2016年10月27日

昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、100歳の生涯を閉じられ
た。日本軍将校として太平洋戦争に関わったことのある最後の皇族だった。その体験を
もとに、戦後は折に触れて平和の存続を願う思いを表現した。学問を通じて若者と交流
したり、テレビやラジオに出演したりして親しまれた。【高島博之】

「若杉参謀」。1943(昭和18)年1月から1年間、中国・南京の派遣軍総司令
部に勤務した頃の三笠宮さまの呼び名だ。皇族であることを隠すために「お印」の若杉
から付けられた偽名だった。当時、軍内部で聞いた話として、捕虜を銃剣で突くことや
、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを著書に記している。「『聖戦』の
かげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えたことをつづっていた。

また、終戦を迎えた時の気持ちを、著書の中で「わたくしは、それまでの不自然きわ
まる皇室制度--もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄(ろうごく)
』--から解放されたのである」と記した。

戦後、歴史研究の道に進んだ理由については「過去のあらゆるものに失望し、信頼を
なくしていたわたくしは、すべてを新しいもののなかから探しもとめねばならなかった
」「わたくしは、当時心に抱いていた疑問を、歴史の研究によって解こうといちずに思
いつめたのである」と明かしていた。

天皇の神格化に関係する祝日として48年に廃止された2月11日の祝日「紀元節」
を復活させることに反対した。57年に建国記念日として復活させる法案が議員立法で
国会に提出されたが、同年11月13日付の毎日新聞は、三笠宮さまが紀元節復活につ
いて「この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別であ
る」と歴史学者の立場で発言したことを伝えている。「建国記念の日」を設ける改正祝
日法は66年に国会で成立し、67年から適用された。

飾らない人柄が人々から親しまれた。東京女子大で講師を務めた際には、食堂で学生
らと一緒に食事をしたり、フォークダンスを楽しんだりした。テレビやラジオの番組で
、専門の古代オリエント史について語ったこともあった。

歴史研究や公務を支え続けたのは41年に結婚した百合子さま(93)だった。東大
の研究生となった三笠宮さまが公務で授業に出られなかった際には、友人のノートを百
合子さまが写したという。

2015年12月2日に100歳となられた感想を「これまでと何ら変わることはあ
りません。世界中の人々の幸せを願い、また、70年以上にもわたり私を支えてくれて
いる妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたいと思います」と公
表した。

MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace

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コメント:
「 「若杉参謀」。1943(昭和18)年1月から1年間、中国・南京の派遣軍総司令
部に勤務した頃の三笠宮さまの呼び名だ。皇族であることを隠すために「お印」の若杉
から付けられた偽名だった。当時、軍内部で聞いた話として、捕虜を銃剣で突くことや
、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを著書に記している。「『聖戦』の
かげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えたことをつづっていた。

また、終戦を迎えた時の気持ちを、著書の中で「わたくしは、それまでの不自然きわ
まる皇室制度--もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄(ろうごく)
』--から解放されたのである」と記した。 」

皇室を利用する右翼ー盲従する一般国民は「格子無き牢獄」を止めるべきである(国民・
庶民の象徴ではなく自由人たることを許さぬ、非人間的生活を強制する制度である。


キーワードで読む:昭和天皇実録/11止 皇室・皇族制度 秘めたる思いと決意 by limitlesslife
October 29, 2014, 11:00 am
Filed under: 天皇(実録、・・・)

毎日新聞 2014年10月29日 東京朝刊

 全61冊に及ぶ実録で、天皇自身が「皇室・皇族制度」についてどう考えていたかを記す部分は、実は多くない。

その皇室制度に関し、戦前戦後で大きく変化したことの一つに皇族数の減少がある。現在の皇室典範改正論議にもつながる部分だ。

占領軍の意向を受けて1947(昭和22)年、室町時代の後花園天皇の弟の子孫に当たる11宮家が皇籍を離れた。この際、昭和天皇、香淳皇后の長女が嫁いで男子も生まれていた東久邇宮(ひがしくにのみや)▽皇后の実家・久邇宮▽明治天皇の皇女が嫁いだ四つの宮家−−など現皇室に近い宮家を残す考えもあったが、天皇の娘である「内親王」を含む全51人が対象となった。その経緯はこれまで知られていなかった。

実録にこの動きが集中して記されるのは前年9月。松平慶民(よしたみ)宮内大臣らが天皇に度々この問題を報告し、「侍従日誌」「松平慶民手帖(てちょう)」など未公開資料を典拠に挙げて9月25日にこう記す。<内廷庁舎御座所(ござしょ)において内閣総理大臣吉田茂に謁を賜(たま)い、皇族の臣籍降下問題につき御沙汰を下される。これに先立ち、この日午前、同所に宮内大臣松平慶民をお召しになり、同問題につき御談話になる>。翌々月11宮家に全員離脱の方針が伝えられた。実録は「御沙汰を下す」との表現で、戦後皇室の範囲を定めたこの決定が天皇によるものだったことを強く示唆する。

「皇籍離脱」は戦後もう一度話題になった。82年4月24日毎日新聞朝刊が伝えた「ヒゲの殿下」寛仁(ともひと)親王の“離脱希望”だ。福祉活動に尽力したいとの思いからの決意だったが、入江相政(すけまさ)侍従長が日記に「そんなに皇族といふものに重圧があり、それがいやならサツサとおんでてもらひたい」と厳しい言葉を記すなど、周囲の反応は冷ややかで、殿下は体調を崩す。

実録では6月18日に<入院中の寛仁親王をお気遣いになる旨を仰せになる(中略)以後、十一月十二日に御対面になるまでの間、しばしば同親王のことを御憂慮になる>と記すが、離脱希望について天皇が具体的にどう対応したかは不明だ。

天皇自身に「違う立場になってみたい」との思いはなかったのか。実は訪米直前の75年9月の米誌インタビューで、王子と貧者が立場を入れ替える英国が舞台の小説を挙げ、「それは私が深く心に秘めていた願いでした」と語っている。小説では王子は市井の暮らしを知った上で結局宮中に戻り、王となる。天皇はそのインタビューでこう語った。「かりに私がそのような望みを実現したら、結末はその物語と同様のことになったのではないでしょうか」

実録はインタビューを受けたことを記すが、この問答は掲載しなかった。ただ、「自らの定め」について側近に語った言葉が別の場所に載る。<祖先から受け継いだこの国を子孫に伝えることが自分の任務であり、(退位せず)苦難に堪えて日本再建に尽くす方が国家に忠を尽くすことになると考えた>(68年4月24日)

近現代史を学ぶ上で昭和天皇の存在は避けて通れない。何を思い、何があったのか。実録完成を機に研究は深化していくだろう。【真鍋光之、古関俊樹】=おわり



(「昭和天皇実録」を読み解く)軍部台頭の時代:2 首相の説明、齟齬を詰問 by limitlesslife
October 1, 2014, 10:59 am
Filed under: 天皇(実録、・・・)

2014年10月1日05時00分

 ■張作霖爆死事件

天皇に即位して1年半後の1928(昭和3)年6月4日、満州の奉天(現・瀋陽)付近で中国東北部の実力者、張作霖が暗殺された。真相は戦後まで公表されなかった。

実録では半年後の同12月24日にこう記されている。天皇は田中義一首相から「六月四日奉天郊外において張作霖が爆死した事件の顛末(てんまつ)につき概要を御聴取」。同28日に白川義則陸軍大臣から「張作霖爆死事件について調査を開始する」との奏上を受けた。

翌29(昭和4)年3月27日、白川陸軍大臣から調査結果の報告を受ける。「関東軍参謀河本大作の単独発意によるものにて、その計画のもと少数の人員を使用して行われた」との内容で、事件が暴露されれば国家に不利な影響が及ぶ恐れがあることも伝えられた。

しかし、6月27日に事態は変わる。田中首相が一転して、犯人不明のまま警備上の責任者の行政処分だけをする意向を天皇に示したからだ。「これまでの説明とは大きく相違することから、天皇は強き語気にてその齟齬(そご)を詰問され、さらに辞表提出の意を以(もっ)て責任を明らかにすることを求められる。また田中(首相)が弁明に及ぼうとした際には、その必要はなしとして、これを斥(しりぞ)けられる」

翌日、田中首相は内閣総辞職を決意。張作霖爆死事件の3年後に満州事変が起き、その後太平洋戦争へとつながっていく。

永井和・京都大教授(日本近現代史)は「田中首相は当初、犯人が日本軍人ならば厳罰に処すと奏上していたが、前言を翻したことで天皇の不信を決定づけた。天皇の不信任で内閣が総辞職したのは前代未聞。天皇が田中首相を叱責(しっせき)しておきながら行政処分をそのまま裁可したのは、首相の辞任と引き換えとの考えだったと思う」と話す。(河野通高)



(「昭和天皇実録」を読み解く)皇太子・摂政時代:1 立憲政治の理想学ぶ by limitlesslife
September 23, 2014, 1:45 pm
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2014年9月23日05時00分

 ■第1次大戦後の欧州歴訪

昭和天皇は皇太子時代の1921(大正10)年3月から6カ月間、英仏伊など欧州各国を訪れた。1月17日の実録によると、元老の山県有朋や原敬首相らが「将来の君主として、皇太子が(第1次)大戦後の欧洲各国を巡遊し、世界の大勢を審(つまび)らかにし、各国の君主・元首と交際して交誼(こうぎ)を厚くすべし」と勧めた。

21年3月3日に出発し、2カ月かけ欧州入り。英国軍の犠牲が多かったベルギーの激戦地イーペル(イープル)を6月13日に訪問。英国王に電報を送った。「目前ノ風景ハ、(略)『イープル戦場ノ流血凄惨(せいさん)』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・敬虔(けいけん)ノ念、無量ナラシム」

フランスでも6月下旬、ベルダンやソンムの戦跡を訪問。7月7日には現地紙に談話を寄せた。「破壊せられたる諸都市、荒廃したる諸森林、蹂躙(じゅうりん)せられたる田野の景は、戦争を讃美(さんび)し、暴力を謳歌(おうか)する者の眼には如何(いか)に映ず可(べ)きか」

実録によると79(昭和54)年8月29日、訪欧で受けた影響について「英国国王ジョージ五世から立憲政治のあり方について聞いたことが終生の考えの根本にある」と宮内記者会に答えている。「裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記」を著した現代史家の波多野勝さんは「欧州で戦争の悲惨さを知り、英国王から『君臨すれど統治せず』の原則を学んだからこそ、即位後は軍部の独走を追認せざるを得ない自身の立場に悩んだ」と語る。

70(昭和45)年9月には記者会に「籠(かご)の鳥のような生活から自由を経験し、それが今も役立っている」と語った。パリで21年6月21日に地下鉄に乗り、その切符を終生、大切に保管した。「卜部亮吾(うらべりょうご)侍従日記」によると切符は亡くなった後、居間の机の引き出しから出てきたという。

(編集委員・北野隆一

◆「皇太子・摂政時代」は全4回で、次回は25日に掲載する予定です。



(「昭和天皇実録」を読み解く)幼少期:2 「博物博士」になりたい by limitlesslife
September 18, 2014, 12:07 pm
Filed under: 天皇(実録、・・・)

2014年9月18日05時00分

 ■歴史・生物学への関心

幼少時の昭和天皇は歴史と生物学を好んだ。9歳だった1910(明治43)年7月6日の実録の記述。

関ケ原の戦いに関する戦史の地図を御覧(ごらん)になり、裏切りをする二心を持った者を嫌う旨を仰せになる」

9月6日、神奈川県三崎町(当時)油壺(あぶらつぼ)の東京帝大理科大学付属臨海実験所を訪問。魚の遊泳を見て、標本などを見学し、魚の名を手帳に書き留めた。葉山御用邸に戻った後、「本日の臨海実験所はこれまで訪問した場所のうち、最も好みとなった」と語った。

昆虫や貝類などの採集に熱中し、図鑑で名前を調べた。11(明治44)年7月13日にはこうある。「皇太子妃(母の貞明皇后)より賜った大型の貝が『貝の手引』にて『トウカムリ』であると確認される。これにつき御感激の旨を侍臣・出仕等にお話しになる」

13(大正2)年5月16日には「『少年』『小学生』等の少年雑誌をしばしばお読みになり、特に理科・歴史に関する学術記事に特段の興味を示されるも、小説類には関心を示されず」とあり、12月29日には「『博物博士』になりたいとの御希望を側近に洩(も)らされる」との記述もある。

76(昭和51)年11月6日、生物学に興味を持った理由を宮内記者会に聞かれてこう答えた。

「歴史を深く研究するといろいろ人に利用される恐れがあることなどから、生物学を選んだ」

所功・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)は「天皇や君主には過去を踏まえ未来につなぐ役割があり、歴史を学ぶ意義は大きい。生物学には、人間以外の生き物に視野を広げる意味もある。天皇にふさわしい人物に成長するようにとの周囲の人々の思いを考えると、歴史と生物に関心を持ったことは偶然ではないと思う」と話している。

(編集委員・北野隆一



朝日放送おはようコール 中川譲が広島豪雨災害と昭和天皇実録を語る by limitlesslife

 永岡です、朝日放送のおはようコールABCのナットク!ニュース塾、今朝は井上章一さんがお休みで、帝塚山学院客員教授の中川譲さん(元朝日新聞デスク)のお話でした。

今朝も広島豪雨災害、新聞は全紙これがトップです。土砂崩れで死者39人、行方不明者43人、土砂崩れの災害では過去最悪です。現地は凄まじい濁流で、土石流の大変なもので、今日も2500人動員しての捜索が行われていますが救助活動はなかなか進みません。情報収集も難航して、真砂土が土砂に含まれ、これが被害を広げています。現地にABC高橋さんがおられて、1時間前に大雨警報で、自衛隊による捜索は雨のため中断、2次災害の危険もあり、また水かさは増えて、上から土が流れ、行方不明者は全体が把握されておらず、今もいつ救助活動の再開ができるかめどは立っていないというのです。
気象予報士の正木明さん、前線に湿った空気が流れ込んだ結果で、上流の山に雨も降り、まだ災害は終わっていない模様で、被害拡大の可能性もあると言われました。
中川さん、泥の海で、危険な地域への対策が取れなかったか、災害が起きるかもしれないと対策が要ったのに、難しい対応をするのが行政と自治体で、安倍政権の危機管理が求められ、警戒区域の意味もないと言われました。

そして、昭和天皇の実録が完成し、宮内庁が24年かけて3000もの記録からまとめたもので、明治天皇の記録の1.5倍の61冊、大正天皇にあった黒塗りなし、全文公開は意味があるというのです。2億円かかり、中川さん、それだけの中身があり、天皇から見たら昭和ほど激動の時代はなく、戦争で天皇の果たした役割は大きく、昭和天皇は軍部に批判的で、戦争を止める清談をどう語ったか、内側から語られる価値はあり、どんどん公開してほしい、中川さんも見たいと言われました。

さらに、エボラ出血熱、タイでも感染が疑われ、西アフリカからタイに帰国した女性に感染の疑いです。死者はアフリカで1300人以上、医療関係者も80人以上亡くなり、ミャンマー(ビルマ)でも疑いがあります。アジアでの感染の疑いは初めてのことです。エボラ出血熱はインフルエンザに似た症状と出血、潜伏期間は長く、致死率もたかく治療法・予防法なし。
中川さん、史上最悪の病気で、先進国はアフリカの風土病と見て対策を立てていなかったためで、先進国を脅かしてやっと対策が出るのはエイズでも似た構図があり、アフリカもグローバル化し、日本も他人事ではなく、日本も対策(予防法、ワクチンの開発)をちゃんと立てるべきで、今は完全な予防は無理で、先進国が対策を立てるべき、日本人も自分のものとして捉えるべきと言われました。

その他、在特会らのヘイトスピーチを見て、国連は規制すべき+警察がヘイトスピーチを守っていると指摘されています。