宮内庁が24年5カ月の歳月をかけて編集し、全61冊約1万2千ページに昭和天皇の動静をつづった「昭和天皇実録」が公表された。実録の記述から87年の生涯をたどり、戦争の時代を経た激動の日々を振り返る。

1901(明治34)年4月29日。「東京市赤坂区青山の東宮御所内御産所において皇太子嘉仁親王(大正天皇)の第一男子として御誕生になる」

5月5日には名を裕仁(ひろひと)、称号を迪宮(みちのみや)と名付けられる。誕生前から、親王(男子)なら養育を委嘱し、内親王(女子)の場合は皇太子夫妻(のちの大正天皇夫妻)が自ら育てるとの案が出ていた。裕仁親王の養育は海軍中将の川村純義(すみよし)・枢密顧問官に委嘱され、7月7日に川村邸に移った。

川村は5月5日付国民新聞で養育の所信を明らかにした。「物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発し、(略)難事に耐ゆる習慣を養成(略)、気儘我儘(きままわがまま)の瑕を一点にても留めまつるが如(ごと)きこと決してあるべからず」として、ものを恐れず人を尊び、難しいことに取り組み、わがままにならないようにと述べた。

5歳となった06(明治39)年6月14日には「御相手の用いる『此(こ)やつ』『ヤイ』『ウン』等の言葉を御使用につき、皇孫御養育掛長丸尾錦作より、御使用を慎むべき旨の言上を受けられる」と、遊び相手から覚えた荒い言葉づかいを学習院教授出身の養育担当、丸尾錦作(きんさく)からたしなめられている。

07(明治40)年2月22日。沼津御用邸で「ハトの敵」といってネコを探し、祖母の昭憲皇太后から贈られた大根細工のゾウを壊し、側近に諭される。

「この頃は何にても直ちに壊すことをお好みの御様子にて、この日も皇后より御頂戴の大根細工の象の鼻を折り、四肢を切断されたため、側近の侍女より、動物虐待の悪しきこと、玩具の動物にても醜く壊すことはよろしからずとの申入れを受けられ、以後はなさざる旨を述べられる」

08(明治41)年4月11日、学習院初等学科に入学し、1年西組に。東宮大夫学習院長の協議した基本方針が、祖父の明治天皇に伝えられた。

「初等学科ノ年間ハ貴賤男女ノ差別ナク必須ノ学科故ニ(裕仁)殿下モ学習院ノ教程ニ従ヒ御修学ノ事」「御同級生ハ華族以上ノ子弟ニシテ品行方正且家庭ノ正シキ者ヲ選抜スル事」

10(明治43)年には沼津御用邸東付属邸に設けられた学習院仮教場で学び、2月4日、葉山御用邸に滞在中の両親・皇太子夫妻に手紙を出した。

「まだやっぱりおさむうございますが、おもう(父)さま、おたた(母)さまごきげんよう居らっしやいますか、迪宮(昭和天皇)も、あつ宮(秩父宮)も、てる宮(高松宮)も、みんなじょうぶでございますからごあんしんあそばせ」

11(明治44)年6月10日には、病のため3月から静養中の母・皇太子妃を気づかう手紙を書いた。

「おたたさま日一日とおよろしくおなりあそばしてうれしうございます。もうおには(庭)さきのごうんどう(運動)もあそばしますか、おしよくじもようめしあがりますか。(略)おたたさまますますお暑くなりますからなほなほおだいじにあそばして一日も早くごぜんかい(全快)をいのります」

宮内庁書陵部は「手紙や作文の一部は、この度の実録で初めて公になる」と説明。ノンフィクション作家の保阪正康さんは「手紙や作文は口語体で写実的に書かれ、現代の子どもにも通じるような文体だ。物事をよく観察するよう教えられたのだろう。科学に基づく合理的な思考の持ち主である昭和天皇の人物像の原型が見てとれる」と話す。

(編集委員・北野隆一

学習院初等学科1年西組の1学期時間割

月     火     水     木     金     土

第一時 訓話・国語 国語    訓話    国語    訓話・国語 算術

第二時 算術    算術    算術    算術    算術    遊戯・唱歌

第三時 唱歌・遊戯 遊・戯唱歌 図画    遊戯・唱歌 国語    国語

第四時 国語    国語    国語    国語    唱歌・遊戯 ―

第五時 手工    ―     唱歌・遊戯 ―     国語    ―