深刻な環境問題を抱えつつも、経済成長を求め続ける――。私たちの文明が直面する根本的なジレンマに対して、日本を代表する社会学者・見田宗介さんは「ならば成長をやめればよい」と明快に答える。しかも、そうすれば今よりもずっと幸福な社会が訪れる、とも。一体、どういうことだろうか。

――見田さんは日本社会について、「世代が消滅しつつある」という指摘をしていますね。具体的には何が起きているのですか。

「かつて、日本人は生まれた年代ごとに明確に違う意識を持っていました。戦中世代、戦後世代、団塊世代新人類と、それぞれの世代に名前も付いていた。でも、新人類世代以降は差がなくなってきた。独自の世代名もなく、『団塊ジュニア』『新人類ジュニア』などと呼ばれています」

「それを実証するのが、NHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに行っている世論調査です。それぞれの世代の意識差を数値化したのが『表』ですが、世代が下るほど差が小さくなり、団塊ジュニア新人類ジュニアではほとんど違いがなくなっている」

「子どもとその親世代の間でも差は無くなりつつある。ファッション界では世代のボーダーレス化が進み、ゲームなどの商品開発でも世代の消滅が語られています」

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――世代がなくなることで、人々の価値観はどんな方向に収斂(しゅうれん)しているのですか。

「特徴が二つあります。一つは『家庭の理想像』の変化です。73年の20歳代では、男女ともに『父親は仕事に力を注ぎ、母親は家庭を守る』という家族が理想でしたが、現代では完全に支持を失い、『男女とも仕事より家庭を重視する』という家族像に変わった」

「もう一つは、『近代合理主義のゆらぎ』とも言うべきものです。『来世』『奇跡』を信じる割合が、73年当時よりも倍以上に増えている」

――日本人は非合理的になった、ということですか。

「そうではなく、合理性で決める場合と、合理性の向こうにある可能性を信じる場合との両方を、自由に肯定している感じです」

「家族観の変化も合理性と関係がある。『夫は仕事、妻は家庭』という家族観は、男性を労働力として最も合理的に活用でき、高度経済成長を担った『企業戦士』『モーレツ社員』を陰で支えた家庭像でした。それが支持を失ったのは、『経済成長のため合理性を最優先する』という価値観が解体しつつあることの表れでしょう」

――世代が消滅し、成長志向から離脱する。世の中のダイナミックな変化が失われつつあるのではないですか?

「ある面ではそうです。世代間で意識が違うのは、青少年期の体験が大きく異なるからです。戦争中に若者だった世代と、戦争体験のない団塊の世代では、価値観が違うのは当然でしょう。だけど、73年のオイルショック以降は『豊かな社会が当たり前』という時代が続いている。人々の生活を、根こそぎ変えるような巨大な変動が少なくなり、歴史の流れがスローダウンしている。世代の消滅はその反映です。日本だけではなく、欧米でも同じような現象が起きています」

――社会が常に変化し、発展していく方がよいのでは?

「必ずしもそうではありません。確かに70年ごろまでは『歴史は加速度的に進化していく』というのが自明だったし、それには根拠もあった。グラフ1のように世界のエネルギー消費量は近代以降、爆発的な勢いで増えていますが、こんな成長が永久に続くわけがない。歴史が進化し続けるままだといずれ人類は破滅します」

「生物を生存に適した環境に放つと、ある時点からグラフ2のように爆発的に増殖しますが、環境の限界に近づくとスローダウンして、安定した平衡状態に達する。『ロジスティック曲線』と呼ばれるものですが、これは生物がうまく適応できた場合のことです」

「限界に達した後も環境資源を食い尽くし、グラフ2の点線のように衰退し、滅亡する愚かな生物も少なくない。地球という有限な環境に生きる人類も、ロジスティック曲線からは免れられません」

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――歴史の減速は、人類が爆発的な成長期から安定期へと向かいつつあることの表れである、と?

「僕はそう考えています。60年代の危機的な問題は『人口爆発』でしたが、今や欧州や東アジアでは少子化が問題となっている。世界全体の人口は今も増えているが、増加のスピード自体は70年ごろを境に急激に低下しています。これも爆発期から安定期に向かいつつあることの証しでしょう」

――今後も経済成長が続いて欲しいと考える人が、大多数では?

「社会の閉塞(へいそく)感が強まる中、人々が成長を望むのは当然です。だけど成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もあります。現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合いとして理解できます」

「その典型例が原発の問題です。原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするからです」

――社会学者のウルリッヒ・ベックは、原発事故地球温暖化など、人間の手に負えない危機に翻弄(ほんろう)される社会を「リスク社会」と呼んでいますね。

「ベックは、リスク社会を現代の宿命であるかのように論じました。だけど、リスク社会を乗り越える方法はある。それは、人間の歴史が安定期に向かいつつあることを直視し、われわれの価値観と社会のシステムを、そのような方向に転回することです」

「決して原始に帰るのではない。近代の成果を十分に踏まえた上で、高められた地平を安定して持続する『高原(プラトー)』というコンセプトです」

――人々が成長をあきらめた社会に暮らしたいと思うでしょうか。消費を我慢して節約に励む生活を強いられるのでは?

「私たちが成長しない社会に暗いイメージしか持てないのは、『成長=最高』という近代の価値観に囚(とら)われ過ぎているからです」

「一例を挙げれば、終戦時に僕は7歳でしたが、当時はみんな『日本が降伏したら地獄だ』と思っていた。だけど、現実には戦争中よりはるかに明るい自由な社会が来た。戦時中というのは、究極の恐ろしいリスク社会です。戦争をやめればそこから解放されるのに、やめることを何より恐れていた。一つの社会の内部にいると想像力が限定され、別の可能性に思いが至らないのです。自然との無理な戦争を早く終結させれば、リスク社会は脱却できます」

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――では、成長しない社会には、どんな明るい可能性が待っているのでしょうか。

「自由と贅沢(ぜいたく)な消費とを何よりも愛した思想家バタイユは、至高の贅沢として『奇跡のように街の光景を一変させる、朝の太陽の燦然(さんぜん)たる輝き』の体験を語っています。生きる歓(よろこ)びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。禁欲ではなく、感受性の解放という方向です」

「近代社会は『未来の成長のために現在の生を手段化し、犠牲にする』という生き方を人々に強いてきました。成長至上主義から脱して初めて、人は『現在』という時間がいかに充実し、輝きに満ちているかを実感できるのではないか。冒頭に見てきた価値観の変化に見られるように、人々はすでにその第一歩を踏み出していると思います」

――「言うは易(やす)く、行うは難し」という言葉を思い出します。

「その通りです。人類の歴史の巨大な曲がり角を、私たちは生きているのですから」

紀元前6世紀から紀元1世紀にかけて、古代ギリシャでの『最初の哲学』と、仏教、儒教、キリスト教などの世界宗教が相次いで出現しています。この時代、貨幣経済による交易と都市化が進み、村落共同体の有限な空間に生きていた人々が、世界の無限の広がりを初めて実感した。その衝撃に直面した人間が、生きることのより普遍的な根拠を求め、哲学や世界宗教が生み出されたと考えています。近代に至る文明の始動期です」

「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという仕事は、700年とは言いませんが、100年ぐらいはかかると思います。けれどもそれは、新しい高原の見晴らしを切り開くという、わくわくする宿題であると思います」

(聞き手・太田啓之)

みたむねすけ 37年生まれ。東京大名誉教授。精緻(せいち)な理論で人間の生の可能性や理想の社会を追求する。著書「定本 見田宗介著作集」など。