「その記事に発見はあるか」

「その記事に挑戦はあるか」

「その記事に覚悟はあるか」――。

畳みかける言葉が、ずしんと胸に響く。

東洋経済新報社が、主要紙に掲載しているメッセージ広告である。来年の創業120年を前に、「健全なる経済社会の発展」という創刊目的を再確認し、世の中にアピールするのが狙いという。

報道機関が守るべきものは何か。一人の言論人の生き様を通して改めて考えたい。

東洋経済の社長、主幹を務め、1956年に首相に就任するも、病に倒れ、無念の降板を余儀なくされた石橋湛山である。

戦前、湛山がかじ取りを担った東洋経済を含め、報道機関は激流にもまれ続けた。湛山は戦後、あるエピソードを書き残している。「私は戦時中言論をもって軍部にかなり楯(たて)を突いた一人だが、しかし如何(いかん)せん、読者の範囲も限られている東洋経済では力が足りない」。そこで、湛山は朝日と毎日を「連合して軍部に対抗させ、けんかさせようと思った」。そして東洋経済を「提供」することを考える。自社が先頭に立って軍部に立ちはだかり、これに「朝日1社でも、自分ところをつぶすつもりでかかれば、たぶん食いとめうると思った」。軍部は言論を恐れている、と見たからだ。

しかし、朝日新聞社の代表取締役、主筆を務めた緒方竹虎は話に乗らなかった。戦後、緒方は「あの時にあなたの言うとおりにしておったならば、ああはならなかった」と湛山に悔やんでみせたという。

自社を提供すると考えたのは、口先の強弁ではなかった。軍部の弾圧で潰されるようなことになれば、東京・日本橋の東洋経済の社屋を売って、「半年や一年は社員の生活を」面倒見ようとまで決心していた。

緒方は「主筆とか編集局長が自ら潔しとする意味で、何か一文を草して投げ出すか、辞めるということは、痛快」だが、大所帯では「そういうこともできない」と会社の存続に重きを置いた。42年当時で見ると、東洋経済の従業員が324人だったのに対し、朝日は5587人だった。

朝日の論説委員、笠(りゅう)信太郎(戦後に論説主幹)が、侵略戦争の本格化を黙認する現状に不満を述べると、緒方は「新聞の黄金時代は過ぎた。色々細工すると、かえってまずい」と抑える側に回った。

湛山は闘志を失わない。ナチス・ドイツ共産主義への共同防衛をうたった日独防共協定があるのに、ソ連(現ロシア)と不可侵条約を結んだ際、うろたえる軍部や政府に、湛山は自ら社論で歴史上、これ以上の大失態はない、と糾弾、検閲当局から「安寧秩序を乱す」と削除処分を受ける。

警察ににらまれていた外交評論家、清沢洌(きよし)を顧問に招き、社説で筆を振るわせた。清沢は死の2カ月前、45年3月17日号の東洋経済に、言論界の巨人への問責状「徳富蘇峰に与ふ」を執筆する。

蘇峰は同年元旦、社賓を務めた毎日新聞の1面で「この上は何(いず)れ遠からず帝都の真ん中に敵の爆弾が落下するであらうから、その時を待つのほかあるまい」と国民の戦意不足を責めていた。

清沢は「朝夕、念仏のやうに口にする愛国が、実は自己擁護のためであったりするものも決して皆無ではない」「分別ありながら衆愚と強力勢力に便乗するものが若(も)しありとすれば」、その罪は善悪の判断ができない者の「数倍する」と非難した。

軍部と一体で戦意をあおってきた蘇峰への攻撃は、軍にあらがうことだ。清沢が正論を書けたのは、言うべきことを主張するためなら会社を潰すこともいとわない湛山の覚悟があったからだろう。

湛山の理不尽との闘いは、戦後、政治家になっても変わらない。第1次吉田内閣の蔵相当時、国家財政の約3分の1を占めていた占領軍経費は、ゴルフ場建設や花や金魚の宅配などの冗費も含まれ、その削減を図った。聖域を切り込まれた占領軍の不興を買い、4年間、公職から追放される。

利益の追求や社会的名声に、言論機関の最終目的はない。国民の危急存亡の時、為政者が誤った判断をしようものなら、自らを投げ出し、おかしいと主張できる防波堤としての役割を忘れてはなるまい。

湛山が覚悟を貫けたのはなぜか。「日本リベラルと石橋湛山」の著書がある田中秀征元経済企画庁長官がこんな話をしてくれた。「就任2カ月余りで退陣する時、湛山は『国民生活あっての政治だから……これを妨害するようなことになってはハナシにならん』と周りに漏らした。平凡な言い方だが、重い言葉です」。国民あっての政治に徹した湛山は、報道機関も国民あってのものと考えていただろう。

日暮里・善性寺に湛山の墓を訪ねた。元首相としては簡素な墓に、新しい花が手向けられている。

湛山たちの苦闘はむろん過去の物語だ。しかし、言論人が、闘う覚悟と書いたことの責任を問われる存在であることは、どんな時代も変わらない――。そう湛山が語りかけてきたように思えた。

(編集委員)