この夏、ニューヨーク・マンハッタンにある瞑想(めいそう)センターで、観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)のクラスを取り始めた。瞑想の基礎を学び訓練する、5週間の入門講座である。

観察瞑想とは、2600年前にブッダが編み出した瞑想法だ。ブッダはそれによって悟りを開いたと言われている。そんな奥義を21世紀ログイン前の続きのアメリカで、仏門にも入らず手軽に学べてしまうのだからありがたい。

とはいえ、僕は悟りなどという大それた目標を抱いて瞑想法を学び始めたわけではない。興味を抱いた理由は単純だ。僕は自分のドキュメンタリーを「観察映画」と呼んでいる。先入観を極力排し、目の前の現実を虚心に観察して映画を作ることを目指している。だから「観察」と名のつくものには、思わず反応してしまうのである。

観察瞑想の方法はシンプルだ。基本的には一定の時間、身体の力を抜いて姿勢正しく座って目をつむり(半開きでもよい)、自分の自然な呼吸に意識を集中させ、観察する。それだけだ。

だが、シンプルだからといって簡単だとは限らない。やってみてびっくりするのは、自分の頭の中が予想以上に雑念だらけだということである。

自分の呼吸に意識を集中させようといくら努力していても、気がつけば「そういや朝日新聞の原稿、書かなくちゃ」「ドナルド・トランプのあの暴言は、今度こそ致命的かもしれないな」などと考えていたりする。他にも「昨日のラーメンはうまかったな」「こんな瞑想をやって、意味あるんだろうか」などなど、あらゆる雑念がひっきりなしに湧いてくる。「心ここにあらず」とはこのことである。

しかし雑念が湧いても、自分を卑下しないのがこの瞑想法の鍵だ。雑念に気づいたら、呼吸に意識を戻す。するとまた別の雑念が湧く。そしたらクールにそれを認めて、再び呼吸に戻る。その繰り返しだ。そうしているとだんだんと心が落ち着いてくるのである。

瞑想で訓練する心のあり方――今ここで起きているありのままに気づき、価値判断をしない――は日常生活でこそ活(い)かされる。例えば、誰かに嫌なことを言われ怒りが生じたら、その怒りをクールに観察する。すると不思議なことに、怒りが湧いてもそれに支配されずにすむ。宗教というよりも、極めて実用的な心理的技術なのである。

実はこの観察瞑想、アメリカでは「マインドフルネス瞑想」と呼ばれ、数年前からブームになっている。瞑想の有益性が、ここ数年ハーバード大その他の脳科学者たちによって、科学的に証明されてきたからだ。瞑想を数週間継続すると、集中力や判断力、問題解決能力、自己制御力などをつかさどる前帯状皮質や、記憶力などをつかさどる海馬などが発達するという。ストレスに強くなり創造力や幸福感も高まるというので(訓練を始めて4週間の僕でもその実感がある)、グーグル社やアップル社が社員用プログラムとしていち早く取り入れた。また、荒れた学校などが瞑想を授業に組み込み、成果を上げつつあるという。

広がる格差や長引く戦争などで、米国社会には憎悪や恐れ、不寛容が充満している。またスマホの普及などで日々の目まぐるしさが加速し、僕らの心は落ち着きを失いささくれだっている。それが更に不寛容を増長させる。

画期的なのは、瞑想はそういう悪循環から自らを解放し得るということである。僕は常々、本質的な社会変革は個人の変革からしか生まれ得ないと考えてきたが、瞑想はその強力な手段となるような気がする。遠回りに見えるかもしれないが、急がば回れとも言う。少なくとも僕は続けていこうと思う。(映画作家)

◆想田さんと、作家の小野正嗣さん、国際政治学者の酒井啓子さんが交代で執筆。月に一度、掲載します。

_________________________

コメント:坐禅は仏教の根本行であり、その目的は涅槃(無風:業風の鎮静)・覚悟(涅槃確証による存在理解)であり、坐禅をして鎮静・静慮することは仏門に入ったということ。坐禅すれば鎮静化するが、的を知らずに眼暗滅法射つのではなく、的がどこにあるかを知って坐禅するのが確かである。日本にいてもその好機・環境・情報はある。多くの人が正しい的を射て目覚めの生活をしてほしいものである。それが仏国土(涅槃=浄土=極楽)の実現になる。禅は判らない、仏教は難しい、宗教は嫌だと食わず嫌いをせず、一度しかない人生を仏として「日々是好日」を実現してほしい。

マインドフルネス(sati, smriti: 念・正念)は観念・感情・意思などを鎮めて心身世界を如実観察すること。これにより三昧(samaadhi、定)般若(prajnyaa, prognosis, 智慧)に進む。止(samatha, shamatha: 止静)・観(vipassanaa, vipashyanaa: 観法)は両輪・両翼の如く両方揃って全体健全な働きをし、これが涅槃・覚悟に至る。観察瞑想は勧の方を主とするが、止が欠かせない(道元は「悟り」は心で得るという一般の考えに対して、身で得るという。身(口・意の三業)を止めるには坐(不動の姿勢;・調身・調息・調心は一体)が必須である。