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稲盛和夫氏に聞く「経営の心、人生の心」(上) by limitlesslife
August 6, 2015, 1:24 pm
Filed under: 稲盛和夫(経営、・・・)
2015年8月6日 ダイヤモンド ハーバード・ビジネス・レビュー編集部

いなもり・かずお/1932年、鹿児島市に生まれる。1955年鹿児島大学工学部を卒業後、京都の碍子メーカーである松風工業に就職。1959年4月、京都セラミック(現京セラ)を設立し、社長、 会長を経て、1997年から名誉会長を務める。また1984年、電気通信事業の自由化に即応して、第二電電企画を設立し、会長に就任。2000年10月、DDI(第二電電)、KDD、IDOの合併によりKDDIを設立し、名誉会長に就任。2001年6月より最高顧問。2010年2月より、日本航空会長に就任。代表取締役会長を経て、2013年4月より名誉会長、2015年4月名誉顧問となる。 一方、1984年には稲盛財団を設立し、理事長に就任。同時に国際賞「京都賞」を創設し、毎年11月に人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰している。他にもボランティアで、全84塾(海外30塾)、9700人余の若い経営者が集まる経営塾「盛和塾」の塾長として、経営者の育成に取り組んでいる。
稲盛和夫オフィシャルホームページ/http://www.kyocera.co.jp/inamori/
Photo by Aiko Suzuki

1959年、27歳の時に京セラ、1984年に第二電電(現KDDI)を創業した稲盛和夫氏。さらには2010年に日本航空の経営再建を要請され、2年という短期間で見事にV字回復を果たした。「経営の神様」とも称される稲盛氏だが、その経営哲学はいかにもシンプルである。「人の心を大切にする」「人として正しい道を踏む」――。経営者として50有余年の歴史を刻んできた稲盛氏が経営の心、人生の心を語る。(聞き手/ダイヤモンド ハーバード・ビジネス・レビュー編集部)

「人の心」を大切にする経営

――これまで稲盛さんは人の心を重視した経営を貫いてこられました。それほどまでに人の心が大切と思われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。

もう若い頃からです。私は27歳の時、私の持つ技術を理解する方々に資本金を出していただき、会社をつくりました。ただし、その私の技術も当時はまだ大したものではありませんでした。自分のお金もなく、大した技術は持たず、まさに徒手空拳で会社をスタートさせたのです。頼れるものはそこに集まってくれた二十数名の社員たちの心しかありませんでした。その人たちの心を頼りにして、力を合わせて何かをやっていこうと考えました。

人の心は、はかなくて頼りないものです。でもひとたび素晴らしい心の結びつきができれば、これほど頼りになるものもありません。私はそのことを信じて、人の心と心の結びつきをベースに置いて経営を行ってきたのです。

人間は心で思ったことを実行に移して生きています。その人がこれまで心に思い描いたものが、嘘偽りなくその人の現在の環境や置かれている立場をつくり、さらには人格や人柄を形成しています。ことほどさように、心の作用は大きいのです。その意味で、人の心を大事にすることは経営にとって最もエッセンシャルな部分だと思っています。

――人の心を大切にすることと合わせ、企業は社会の発展に貢献する必要があるということも昔からおっしゃっています。企業家として、まだ自分の事業が安定しない段階でそのような境地に至るのは、普通の人にはなかなかできないことのように思うのですが――。

社会貢献をそんなに難しく考える必要はありません。大それたことを考えなくても、経営者は社員の雇用を守ることが大きな社会貢献になるのです。全国の中堅・中小企業の経営者の方々が集う盛和塾でも、社員を抱えてその人たちの生活を守っていくことだけでも、大変立派な社会貢献ですといつも言っています。日本の社会は中小零細企業が底辺を担っています。大企業の社員よりもはるかに数の多い、中小企業に勤める人たちの雇用を守ることは、日本の社会を支える立派な社会貢献なのです。

もう一つ、経営者にとって重要な社会貢献は税金を納めることです。このことも繰り返し言っています。ただし、中小企業の経営者の方々は本質的に税金を払うことが嫌いです。何とか税金を少なくしようと思いがちです。たしかに、事業を起こして朝から晩まで頑張って、苦労して出した利益から税金を取られると腹立たしく思うかもしれません。私もかつては、何も手伝ってくれなかった国がこんなに税金を取るとはけしからん、悪代官みたいやないかと思ったことがありました。しかし、その後、税金を払うことは、大変な社会貢献だと考えを改めるようになりました。

――中小企業の経営者が頑張って残した利益を自分のために使いたいという気持ちもわからないではありませんが。

皆さんそう思っているでしょうね。税金を取られるくらいなら、交際費を使ったり設備投資をしたりして、自分で使いたいと考えるのは、ある意味当然です。なかにはさして必要もないことにお金を使ってあえて利益を減らそうとする方もいます。しかし、経営者である以上、本心では利益をたくさん出して、それをもとに会社をもっと立派にしたいと思っておられるはずです。そこに非常に矛盾した心の葛藤が生じるのですね。そういう葛藤を抱きながら経営している方が多いのですが、私は、一生懸命頑張って利益を出して税金を払って、その残りが会社の本当の利益なのですよと言っています。税金を支払う前の税引前利益を利益と思うから惜しくなるのであって、税引後の利益が本当の利益だと思えば考え方が変わるはずです。

少々昔のことになりますが、こんなエピソードがあります。ブラジルにも盛和塾があります。ブラジルに住む日本人は、移民で大変苦労して、なかには親子食うや食わずで頑張って今日では立派な牧場主になったり、バナナ王と呼ばれるまでになった方もおられます。私がブラジルに行った時、そうした方々が集まってこられて勉強会が始まったのです。その時、税金を払うということは大変な社会貢献なのですよと言ったところ、全員から猛反発がありました。「稲盛さんは日本にいるからそんなことを言うけれども、いまの腐敗し切ったブラジル政府になぜ税金を払わなければならないのですか」と皆さんおっしゃるのです。それでも私は信念を通して、いえいえ、そんな中でもやはり税金は納めるべきなのですと言い切りました。

その五年くらいのちのことです。当時、ブラジルはインフレによって金利が非常に高く、銀行から借金すると会社は潰れるといわれた時代でした。そんな中で先ほどの牧場主の方が、私の言葉を信じて利益が出た時に真面目に税金を払い続けていました。その方がある時、事業を拡大したいと思って銀行にお金を借りにいったら、銀行が「あなたはきちんと税金を払っていらっしゃる。そんな真面目な経営をしている方には低金利の融資ができるのです」と言って、びっくりするくらい安い金利でお金を貸してもらえたそうです。「稲盛さんが言われる通り、真面目に税金を払っていたらいいことがありますね」とその方から言われて、私も信念を曲げずにいてよかったなと思いました。

「正道」を歩むことが企業を永続させる

――いまのお話をうかがって、短絡的な利益を考えるのではなく、真面目にかつ誠実な経営を行っていれば、京セラのように事業が大きくできるという逆説的な真理を感じました。

Photo by Aiko Suzuki

そうだと思いますよ。正しい道、「正道」を踏んで事業をしなければ永続的な経営はなしえません。私は物事を判断する際には、「人間として何が正しいのか」ということを真っ先に考えます。経営に当たってはルールとか慣行とか、いろいろなものが存在しますが、それらを超えて人間として正しい生き方、考え方をしていくことが大切だと思っています。そしてそれが結果的に利益をもたらしてくれるのです。

私が若い頃に開発した製品に半導体パッケージがあります。米国で半導体産業が勃興し、いわゆる超LSIというICが次から次へと生み出されました。ICはシリコンのウェハーの上に密集した回路をつくり、それをパッケージに入れて外部にリード線を出します。私はセラミックスでそのパッケージをつくる手法を開発し、米国の半導体のメッカであるシリコンバレーでは、100%と言ってもいいくらい当社のパッケージが使われていた時期がありました。

当時、ソ連も戦略物資としてアメリカのICを入手して研究していました。ところがそのパッケージが米国ではなく、日本の京セラという中小企業が製造していることを知ったのですね。そこで、ソ連の科学アカデミーのセラミック技術者たちがひっきりなしに京都を訪れ、あなたが開発した半導体パッケージの製造ノウハウを売ってほしいと言ってこられました。私はずっと断り続けていたのですが、あまりに熱心なので誘われるまま一度ソ連に行ってみたら、大変な歓待を受けました。当時まだソ連に併合されていたリトアニアなどバルト三国が風光明媚だからと、ソ連の高官がわざわざ案内してくれたほどでした。

そのように一生懸命、私の技術がほしいと言うので、結局折れて、じゃ売りましょうと契約のために単独でモスクワに出向きました。製造設備のプラントをすぐに使い始められる状態のターンキーで輸入したいという話で、そういう大きなプラント輸出は私も初めての経験でした。

すると今度はソ連の人たちは膨大な量の契約書類を持ってきました。通訳をつけて契約書を前に交渉しましたが、その契約書はソ連側に一方的に都合のいい内容だったのです。読んでいくうちにこれはおかしいと思い、ここを直してほしい、あそこを修正していただきたいと申し入れました。それが連日でした。

ソ連は社会主義の国ですから、こうした技術輸入をする時は法務省が作成したフォーマットに基づいて契約書を作成します。それを日本の中堅企業の社長ごときにズタズタにされてはソ連の権威が失われると言って、ものすごく怒るのです。

私は「そうですか。それなら売る気はありません」と席を立とうとしたのですが、当時ソ連には国営航空会社のアエロフロートしか飛んでおらず、予約も全部ソ連側にやってもらわなければいけませんでした。このままではあなたは飛行機に乗れませんよと脅され、なかば人質に取られたような格好で連日押し問答となりましたけれど、私は一歩も退きませんでした。

人間として正しい道を貫きたかったからです。正常な商いとして正しい評価をしてくれるのなら売るけれども、一方的に不平等な契約では売る気はありませんと抵抗したわけです。結局、最後はソ連側が今回は特別だと折れて、ノウハウともどもプラント輸出したのですが、これが非常にうまくいってソ連にも大変喜んでもらえました。同時に、当時中堅企業でしかなかった京セラに対しても、大きな利益をもたらしてくれました。

――当時、ソ連への輸出では大手企業も大変な苦労をしていました。稲盛さんがその突破口を開かれたわけですね。

どこで聞かれたかは知りませんけれども、日本の大手企業数社の幹部の方が、「京セラはソ連にプラント輸出して大成功したらしいが、どうしたらうまくいくのかそのノウハウを教えてほしい」と言ってこられました。聞くと、その方たちもソ連に技術を売ったけれども、儲けるどころか追い銭を取られるほどでさんざんな目に遭ったそうです。私はその時、「ノウハウなんてありません」と答えるしかありませんでした。

というのも、その方々はどう交渉すればいいかという交渉のテクニックを求めておられたのです。私は人間として何が正しいのかという一点で考えているだけですから、もともとテクニックなど何もないのです。「人間として正しいかどうかを基準に考えて、それはおかしいということを主張してきただけです」とお伝えしましたが、それは大手企業の皆さん方にとっては回答になっていなかったようで、おかしなことを言う奴だなで終わってしまいました。

――人間として何が正しいのかということは非常にシンプルな基準ですが、実行するのは並大抵のことではありませんね。

そういう生き方をしようと決めれば、どうということはありません。曲げてそうしようと思えば大変かもしれませんが――。もともと私にはそれしかないものですから、何でもないことでした。

私は売る側も買う側も、お互いが利益を得られる商売こそが正しい商売だと思っています。まだ三〇代前半で、会社を始めていろいろ悩んでいた時期に、江戸時代の京都の商人だった石田梅岩という人のことを知りました。梅岩さんは学問があったわけではないのですが、商人道というものを提唱された。商いは我も立ち先も立つことが必要で、自分もうまくいき、相手もうまくいくことが商売だと言っておられたということを雑誌で読んで、これだ、と思いました。

テクニックやノウハウに頼るのではなく、物事の本質から見直して、この仕事についてはどうすることが正しいのかということを考える。つまり自分だけが儲けようとするのではなく、相手にも喜んでもらうという「利他の心」をもって考察し、そこから解を見出していくことが大切だと思っています。

>>続編『稲盛和夫氏に聞く「経営の心、人生の心」(下)』に続きます。

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コメント:会社の経営も社会・国家の経営も正道・誠心で自分にも他人にも良く、永続するものでなければならない。

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【敗れざる人々(2)】 税金泥棒と罵声を浴びたJAL社員のいま ――日本経済新聞編集委員 大西康之 by limitlesslife
August 18, 2014, 10:09 pm
Filed under: 稲盛和夫(経営、・・・)
DOL特別レポート
【第472回】 2014年8月18日 大西康之 [日本経済新聞 編集委員]

2010年1月、約2兆3000億円の負債を抱えて倒産した日本航空(JAL)。倒産前5万1000人いた従業員は3万2000人に減り、残った社員も「明日はどうなるのか」という不安を抱えていた。しかし京セラ創業者の稲盛和夫を会長に迎えた同社の業績は鮮やかにV字回復し、12年9月には再上場。現在も高い利益水準を維持している。世間から「税金泥棒」と罵声を浴びながら、ひたすらに飛行機を飛ばし続けた彼らもまた「敗れざる人々」である。

キャビンの隅で泣いた

おおにし・やすゆき
日本経済新聞 企業報道部 編集委員、1988年日本経済新聞社入社。欧州総局(ロンドン)、日経ビジネス編集委員などを経て2012年から現職。著書に『三洋電機 井植敏の告白』(日経BP社)、『稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生』(日本経済新聞出版)がある。

彼らは二度売られた。

「あなたの会社、つぶれたわよ」

2010年1月19日、入社3年目の川名由紀はJALの倒産を知人からのメールで知った。パイロットに気象情報など運航に関わる情報を提供する航務部に所属していた川名は、この日、休みを取って出かけていた。

「え、倒産」

にわかには信じられなかった。

甘い考えでJALを選んだわけではない。川名が入社したのは07年。2年前には安全に関わる運航の重大ミスが続いて国土交通省から事業改善命令を受け、次の年には「四人組」と呼ばれた子会社の4役員が新町敏行社長ら代表取締役3人に退任を要求する内紛が起きた。

川名たちは「それでもJALで働きたい」と望んで入社した世代だ。会社の経営がうまく行っていないことは承知の上で「自分たちが何とかする」くらいの気概を持って働いていた。それにしても前の期に過去最高の営業利益を出したばかりなのに、いきなり倒産とは。

この先どうなるのか不安で押しつぶれそうだったが、それでも川名は倒産を教えてくれた知人に気丈なメールを返した。

「私は自分のやるべきことをやる」

2日後の21日、川名が職場の関西国際空港に顔を出すと、飛行機はいつものように飛んでおり、いつも通りに仕事があった。

「なんだ、いままでどおりじゃないか」

倒産の実感は湧かなかった。

入社4年目だった客室乗務員の旦千夏も「JAL倒産」の一報が流れた日は非番だった。翌日、恐る恐る出社すると、職場の話題は倒産のことで持ちきりだった。

「私たちどうなるの」
「大丈夫なんじゃない。飛行機は普通に飛んでるし」

現場にそれほどの切迫感はなかった。

しかし離陸前、乗客に配る新聞を手にして旦はぎょっとした。

「JAL破綻、公的資金注入」

1面横見出しにでかでかと書かれた新聞を手渡すと、乗客に「おたく大丈夫?」と聞かれた。自分たちに向けられる不信の目。このとき初めて旦は経営破綻で失ったものを痛感した。自分たちは何かとんでもないことをしでかしたのではないか。その日から乗客に対応するのが怖くなった。「税金泥棒」などと、心ない言葉を投げつけられ、キャビンの隅で泣いたこともある。

「経営の目標は……」

旦たち現場の社員が自信喪失に陥りかけていたそのころ、1人の経営者がJALに乗り込んできた。

稲盛和夫。

京セラとKDDIの創業者で、凄腕の経営者らしい。
「きっと怖い人なんだろうな」

川名たちが抱いたイメージは、マッカーサー元帥に近い。倒産という敗戦を迎えたJALに乗り込んでくる進駐軍。「だからおまえたちはダメなんだ」と怒られるかもしれない。少し憂鬱になった。

だが、間近で見る稲盛はちっとも怖くなかった。「意識改革推進準備室」のメンバーに選ばれた川名は、稲盛のそばで働くことになり、稲盛が会議、会議で昼食を取る暇がないときは、本社の一階にあるコンビニエンスストアまでおにぎりを買いに走った。頼まれたおにぎり2個を渡すと、稲盛はいつも「ありがとう」と両手を合わせた。

稲盛がJALの社員に向けて放った第一声に、川名たちは意表をつかれた。

「経営の目標は、社員の物心両面の幸福を追求することです。私はごらんの通りの高齢で毎日は出社できませんが、皆さんが幸福になれるよう、懸命に働きます」

「つぶれた会社の社員が、幸せになってもいいの」

多くの社員が涙を流した。

その日から川名や旦たちは、自分たちの働き方をもう一度、根底から見直すようになった。配られた白い「JALフィロソフィ手帳」を開き、「一人ひとりがJAL」「最高のバトンタッチを」といった文言を見つけては「これ、まだできてないよね」と話し合った。

例えば機内販売。破綻前もまじめにやっているつもりだったが、ときには自分で使ったことがない商品を売ることもあった。それでは自信を持って客に勧めることはできない。そこで空港のオペレーションセンターの一角に機内販売商品を集めたコーナーを作った。今日売る化粧品の香り、スカーフの手触りを確認してから乗務する。

自信を持って乗客に勧められるから売り上げが伸びる。しかも部門別採算制でその成果がすぐ分かる。「数値化された成果を見ると、こんなに売れたんだ、と嬉しくなり、もっと頑張ろうという元気が出る」(旦)。

周りを見渡せば若い整備士ばかりに

整備士の竹ノ内智大は羽田航空機整備センターでその日を迎えた。自分の会社が「会社更生法の適用を申請した」と言われても、飛行機は今まで通りに飛び、整備の仕事もいつも通りだった。

竹ノ内は淡々と仕事を続けたが、破綻から数ヵ月後、朝の体操の時に周りを見渡して驚いた。20代~30代の若い整備士ばかりだったのだ。50代のベテラン整備士が早期退職でごっそり辞めたのだ。

現場が浮足立ち始めたその頃、「利他の心」などを説く稲盛の「フィロソフィ教育」が始まった。実家が自営業の竹ノ内は稲盛の著書を読んだことがあったが、JALに当てはまるとは思えなかった。「うちは宗教をやってるんじゃねえ」と反発する仲間もいた。

2011年11月からスタートした「JALフィロソフィ教育」。全グループ社員が対象だ
Photo:DOL

しかし稲盛が持ち込んだ「フィロソフィ」と、部門別採算制の「アメーバ経営」が浸透するにつれ、整備の現場はみるみる変わっていった。

一番の変化は元JAL、元JAS、元整備子会社という出身母体の垣根が消えたことだ。ベテランと若手がチームを組み、JASのベテランがJALの若手を育てることもある。破綻前にはなかった光景だ。

整備には運航中の飛行機を飛び立つ前に直す整備と、1年かけてオーバーホールする重整備がある。破綻前は日常の整備のために数百億円の部品在庫を持っていた。

今は重整備中の機体から部品を取り外して日常の整備に使うこともある。「作業も手続きも煩雑で整備士としてはやりたくないが、今はそれが正しいと思えばやる」(竹ノ内)

迷った時に立ち返るもの

国際販売部の丸山浩平は入社3年目で破綻を経験し、直後に青森支店に転勤した。以前7人いた営業スタッフは4人に減り、支店のスペースも半分になっていた。

丸山たちの世代は入社以来、給料が下がり続け、ボーナスもまともにもらったことがない。コストにシビアで「やりたい放題にやっていたつもりはなかった」。だが部門別採算制の導入で「意識ががらりと変わった」。

「以前は他社との対抗で値下げしても注文を取れば勝ち、と思っていた。今は利益が出ない受注はしない」(丸山)。「ここは高速道路を使わなくてもよかったんじゃないですか」。上司に対しても、そう言える。

今年4月に機長に昇格した神谷重範もアメーバ経営による「見える化」の効果を実感した。着陸の時、エンジンの逆噴射を使わずブレーキで止まれば1回で10万円の燃料節約になる。アメーバの導入により、こうした施策で毎月1億4000万円の燃料費が節約できることが分かった。

「一人ひとりが経営者」という稲盛哲学の浸透で、パイロットのコスト意識は格段に高まった。一方で神谷は「コスト削減一辺倒にならないよう、ブレーキをかけるのも運航乗務員の役目」という。コスト削減で安全が脅かされることがあってはならないからだ。

そんな神谷も判断に迷った時は「JALフィロソフィ」に立ち返る。「人として何が正しいか、と考えれば答えは見えてくる」からだ。

JALの14年3月期決算は米ボーイング787型機の運航停止などにもかかわらず、1576億円という高水準の経常利益を維持した。それでも現場は「2度とああいう目(破綻)にはあいたくないですから」(竹ノ内)と愚直にアメーバ経営を続けている。(文中敬称略)

【参考文献】
『稲盛和夫 最後の闘い』(大西康之著、日本経済新聞出版社)官僚的なJAL経営幹部らを容赦なく叱り飛ばした稲盛。リーダー不在という日本の課題に斬り込む迫真のルポ。

 『稲盛和夫流・意識改革 心は変えられる』(原 英次郎著、ダイヤモンド社)稲盛改革はいかにして従業員の意識を変えたか。従業員の証言を軸に改革の本質に迫る。

 


大西康之著『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』(日経BP社)が発売中です。散り散りになった旧経営陣は今何を思い、10万人の社員たちは今どこで何をしているのか。たとえ今の職場がなくなっても、人生が終わるわけではありません。会社を失ったビジネスパーソンの明るくたくましい生き様が垣間見える「希望の物語」となっています。ぜひご参照ください。



(証言そのとき)不屈不撓の一心:14 若人よ、絶えず努力を 稲盛和夫さん by limitlesslife
July 14, 2014, 1:40 pm
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2014年7月14日05時00分

 ◇京セラ名誉会長

 

2013年3月末に日本航空(JAL)の取締役を退任しました。JALは前年9月に東京証券取引所再上場し、官民ファンドの企業再生支援機構からの出資金3500億円に約3千億円をプラスして、国庫にお返しすることができた。

退任した直後の4月2日、約1千人の社員が羽田空港の格納庫で、感謝の会を開いてくれました。私は一言あいさつをしました。

「私は誠心誠意、命をかけてJALの再建に向けて努力しましたが、よみがえったJALは、皆さん方の毎日のひたむきな努力の結果です。3万2千人の社員が心からJALを愛し、再建しようと心を一つにしてがんばった結果です。私は皆さんの努力に対し、ありがとうと申し上げたい」

 

■謙虚に、おごらず

さて、これからのJALのことです。お陰様で業績が急回復して、破綻(はたん)前よりすばらしい会社によみがえった。そうなると、どうしても心に緩みが出てくる。倒産直後、ボーナスはなかったけれど、少しは出るようになった。給料もだいぶん減額されたけど、少し戻った。「待遇を元に戻してほしい」という声が出てくるかもしれません。

株主からも「これからの業績はどうなる。もっと売り上げや利益を伸ばすためにどうするのか」という声が増えてくるでしょう。会社経営というのは、どうしても拡大路線へ、経費は増大の方向へ傾きがちです。そうなると、イベントリスク、航空事業の場合、地域紛争やテロ、燃料価格の上昇といった業績が悪くなる様々な要因も増えてくる。うまくいってる間は順調にみえますが、リスクは拡大していくんですね。

私は、今の社長の植木義晴さんら幹部の人たちに「謙虚にしておごらず、更に努力を」と言ってます。私が若いころから、ずっとかみしめてきた言葉です。

 

■助言どう生かすか

最後に、今の若い人たちにも申し上げておきたいのは、自分のおかれた環境がどうであれ、自分の人生をどういうふうに送りたいか、その思いをしっかり、胸に抱いて、それに向かってひたむきに努力することが大切だということです。充実した人生を送るには、それしか方法がない。今、満ち足りた社会ではあるけれど、何か足りない、自分の思うようにならないと不平不満を持っている方が多い。

でも、どの時代でも自分の思うようにはなりません。ですから、自分の心の中に、こうありたいという強い思いをもって、それに向かって必要な努力をする。その繰り返しが、人生を形づくっていく。自分がどうなりたいのか、夢を、強い願望を心に抱いて、それに向かってまっしぐらに努力する。何があろうとも努力してほしい。

自分の環境が不利だと嘆いたり、悲しんだり、不平不満を言っていては、ますます自分の境遇を悪くしてしまう。人生というのは、自分の心に描いた通りになります。これは、紛れもない事実です。常に心に美しい強い思いを抱き、それに向かって絶え間ない努力をする。それが若者へのメッセージです。

「稲盛さんはいい人と出会えて運がよかったからだ」と思うかもしれないけれど、決してそうではありません。誰でも、親戚、家族、先生、友人、色んなところで美しい心でアドバイスしてくれた人に出会っているはずです。それをどう受け止め、反応するかで、人生は変わってくる。しみじみ、そう思います。=終わり(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

次週からの「証言そのとき」は、元財務相の藤井裕久さんです。

 

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(証言そのとき)不屈不撓の一心:12 日航再建、まずは心から 稲盛和夫さん by limitlesslife

2014年6月23日05時00分

 ◇京セラ名誉会長

 

2010年1月、経営破綻(はたん)した日本航空(JAL)の会長になってほしいと、政府から言われました。事業会社としては戦後最大規模、負債2兆3千億円を抱えての倒産です。友人や家族は反対し、「80歳を前に余計なことに手を出さなくても」と忠告してくれた。

何度もお断りしましたが、それでも「あなたしかいない」と懇願され、真剣に悩みました。でも、「世のため人のために役立つことが人間としての最高の行為である」というのが私の人生哲学です。78歳でしたが、決心しました。

「週3日ほどなら働けますから、無給でやります」という条件でしたが、実際には、1週間のほとんどを東京のホテルで暮らしました。遅くなると、コンビニで、おにぎりを2個買って帰った。おかかと昆布、定番でしたね。

 

■潰れても当たり前

JALのことは何も知らなかった。ただ、海外出張で利用して乗客へのサービスがよくないと感じていました。だんだん嫌いになって、会長に就任するまで乗っていなかった。マニュアル一辺倒というか、心からお客さんのためにという気持ちが感じられなかった。

幹部10人ぐらいと会って、話を聞きました。やっぱり私が感じていた印象は、間違っていなかった。頭のいい人ばかりで、言っていることもすばらしい。でも、零細企業から身を起こした私にすれば、官僚的というか、心が伴っていない。これでは何万人もの社員が心から信服してついてくるわけがない。潰れても当たり前だと思いました。

10年2月に会長に就任し、6月からは幹部約50人のリーダー教育を集中的にやった。私が考案して京セラで運用した部門別採算制度、いわゆる「アメーバ経営」を導入するには、リーダーとしての考え方の共有が必要でした。

とても忙しい時期でしたが、月曜から金曜のうちの3日間と土曜の計4日間を充てました。私も6回ほど話して、その度に会議室でビールと乾き物で「コンパ」も開いた。

リーダー教育では、私が経営の要諦(ようてい)を語り、リーダーは部下から尊敬される人間性を持たなければならず、日々心を高めていかなければならないという人間の生き方まで説いた。幹部には違和感があったのでしょう。最初のコンパでは、私の哲学に納得できない幹部と議論になり「バカヤロー」とおしぼりをぶつけて叱ったこともあります。ただ、少しずつ分かってくれる人も増えていきました。

 

■現場へ響いた言葉

現場では、誰も倒産するとは思っていなかったでしょう。特に、お客さんと接する社員は大変でした。「JALは横柄。倒産して当然だ」と、お客さんから罵声を浴びせられていた。

社員には、再建に向けての私の思いをメッセージとして送りました。多くの現場を回り、「最前線にいるのは皆さん。お客様を大切にするおもてなしの心が大事です。幹部がいくら威儀を正して言っても、意味はない。お客様の心をつかむのは皆さんです」と話した。目を潤ませて聞く社員もいて、「がんばります」と言ってくれました。

後から聞きましたが「自分のおじいさん世代の人で、JALとは何の関係もない人が再建に乗り出してくれた。しかも無給。ありがたい」という話が現場に広がっていったそうです。社員の意識は、確実に、急速に変わっていきました。

(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

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コメント:機内サービスの心が善く素晴らしいですね!

 

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(証言そのとき)不屈不撓の一心:11 いつか社会にお返しを 稲盛和夫さん by limitlesslife
June 17, 2014, 11:39 am
Filed under: 稲盛和夫(経営、・・・), 経営危機

2014年6月16日05時00分

 ◇京セラ名誉会長

 

1971年に京セラが株式を上場して、思いもよらず、多額の資産をもつようになりました。でも、財産は自分のものではなく、たまたま私が社会から預かったものと考えていましたから、いつかは社会にお返ししなくては、と思うようになりました。

 

■「京都賞」今年で30回

顕彰事業の「京都賞」を始めたのは、81年に私が「伴(ばん)記念賞」を受賞したことがきっかけでした。東京理科大学の伴五紀(いつき)教授が科学技術に貢献した人をたたえる賞です。最初はうれしかったのですが、受賞当日になると自分が恥ずかしくなった。私はもう頂く立場ではなく、差し上げる側ではないかと思ったんです。

親しい京都大学の矢野暢(とおる)教授に相談したら、「ノーベル賞に負けないものをつくりましょう」と励まされ、84年に顕彰事業を運営する稲盛財団を設立しました。周囲の方は「稲盛賞にしては」と言ってくれたのですが、お世話になった京都という地名をとって「京都賞」と名づけました。

京都賞は、今年がちょうど30回目です。私が寄付した主に基金と運用益で運営していますが、堅実に続いています。受賞者は、先端技術、基礎科学、思想・芸術の3部門で、賞金は1賞あたり5千万円。これまでに世界各国の93人、1団体が受賞され、日本人では、後にノーベル賞を受けた山中伸弥さん、デザイナーの三宅一生さんらがいます。

毎年11月、京都市国立京都国際会館で開く授賞式には、家族もお招きします。研究者というのは長年、人知れず地味な研究に没頭している。家族と一緒に受賞を喜んでもらいたいという思いからです。

ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダさんは賞金で母国に博物館をつくり、日本の浮世絵伝統工芸品を集めて、公開された。ワイダさんは「こちらの国民も、日本から来た方も喜んでいる」と話していました。最近は、自分の研究施設に基金として寄付される方が続いています。

 

■「盛和塾」で経営哲学

京都賞の創設と同じころから続く活動に「盛和(せいわ)塾」があります。

京都青年会議所での80年の講演がきっかけでした。2次会で若い人たちから「経営を教えてください」と懇願されたのです。最初は忙しいからと断っていたのですが、何度も頼まれて、83年に勉強会「盛友(せいゆう)塾」が始まりました。

日本には、実践的な経営を教えてくれるところはありません。中小企業の経営者の皆さんにどこで経営を勉強されたのかと聞くと、独学だという。

経営のやり方は業種によって様々。だから私は経営ノウハウではなく、共通する経営哲学を教えたかった。うわさを聞きつけた大阪からも「我々も勉強したい」と言ってこられた。

しばらくして、名前を「盛和塾」に改めました。事業の隆盛の「盛」と人徳の和合の「和」。私の名前の2文字でもある。

中小企業の経営者は、従業員と家族まで守ってやらなければならない。会社が傾けば、従業員も家族も路頭に迷ってしまう。重い責務です。そこに気づいてもらわなければいけない。

年12回ほど各地で開く塾長例会では、私が講話したり、塾生に経営体験を発表してもらい、私がコメントしたりしています。懇親会ではひざを交えて議論します。盛和塾はいまではブラジル、中国など海外を含めて74支部あり、塾生は9千人を超えています。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

 

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(証言そのとき)不屈不撓の一心:9 競争育む、信念の大合併 稲盛和夫さん by limitlesslife
May 27, 2014, 12:29 am
Filed under: 稲盛和夫(経営、・・・)

2014年5月26日05時00分

 ◇京セラ名誉会長

 

第二電電(DDI)は1989年7月、関西電力などとの合弁で「関西セルラー電話」を設立し、携帯電話サービスを始めました。「赤ちゃんが生まれたら、名前をつける前に電話番号をもらうようになる。いずれ一人ひとりが電話番号をもつ時代が来るでしょう」。開業式でこうあいさつしたのを覚えています。

我々DDIの携帯参入の地域割りの条件は、圧倒的に不利でした。全国展開できるNTT、同じ新電電の日本移動通信(IDO)は首都圏、中部圏を割り当てられている。我々は、関西とその他の地域でした。

ただ、関西セルラーは最初の年こそ赤字でしたが、翌年度には経常利益49億円を稼ぎ出した。自動車電話ではなく、携帯電話が主流になると証明できた。各地域で電力会社など地元の有力企業と組んだのもよかった。電力会社の施設を利用させてもらった。うまくいったと思います。

 

■NTT独占へ対抗

96年、政府の電気通信審議会でNTTの分離分割の方針が示されました。しかし、その後、NTTが猛烈に巻き返して、純粋持ち株会社という結論になりました。第2次臨時行政調査会(土光臨調)の「分割・民営化」の理念とは大きくかけ離れてしまった。

NTTの分離分割を前提にしていた我々DDIは、戦略の抜本的見直しを迫られました。当時、私は会長で、奥山雄材社長と戦略を練りました。「日本の情報通信市場の健全な発展には競争が必要」。それが、DDI設立の精神です。NTTに対抗するには携帯電話ではトヨタ系のIDOと、国際電話では国際電信電話(KDD)と一緒になる。大同団結する以外にない、と腹をくくりました。

 

■「対等」は無責任に

交渉は奥山社長にあたってもらいました。ただ、DDIが経営に責任をもち、存続会社になることを基本にしました。トヨタ自動車からは「対等と言わずとも対等の精神でという風にはならないでしょうか」という話もあったようです。そこは譲れないと、奥山社長に踏ん張ってもらった。

「対等の精神」というのはきれいな言葉ですが、結局は無責任になる恐れがある。合併した大手銀行でも人事をたすきがけにするとか、二つの会社が経営しているようになっている。

交渉は難航しました。こちらが主張を譲らなかったので、マスコミには「稲盛の覇権主義」とも書かれました。でも、これが最後のチャンス、通信の世界での総仕上げという思いもあった。先方には「NTTに対抗するには合併しかない。徒手空拳で、DDIを上場企業まで育てた実績を評価していただきたい」と伝え続けました。

最後の話し合いは、99年8月の東京でした。トヨタの会長だった奥田碩(ひろし)さんとの会談で、こう言いました。

「今回の話は、私心から、利己的な思いからではない。NTT独占に対抗することは国民のためになるとの思いからです。そこは信用していただきたい」。奥田さんは、私の真意を理解してくれたようでした。

当時は、KDDとの合併も話が進んでいました。この3社による合併で、国内2位、世界でも10位に入る国際電気通信会社KDDI(au)が誕生することになるのです。

今では営業収益は4兆円を超え、従業員は2万人です。こんなに順調にいった合併は珍しいと思います。

(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

 

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(証言そのとき)不屈不撓の一心:8 「携帯電話ならいける」 稲盛和夫さん by limitlesslife
May 19, 2014, 1:10 pm
Filed under: 稲盛和夫(経営、・・・)

2014年5月19日05時00分

 ◇京セラ名誉会長

 

通信事業への参入の自由化は続きました。1986年に電波法が改正されて、NTTが独占していた自動車電話にも参入できるようになった。車から端末を取り外して持ち歩ける携帯電話への参入も認められた。

京セラはそのずっと前から、携帯電話の中核部品でもある集積回路(IC)のチップを保護するパッケージを、米国の半導体メーカーに納めていました。

当時、ICの進歩の速さ、小型化には、すさまじいものがありました。自動車電話は難しくても、携帯電話ならいける。そんな予感がありました。車外に持ち出せるショルダーフォンは3キログラムもあったけど、いずれは手のひらに乗る電話ができて、一人ひとりが電話番号を持つようになると思っていました。

 

■役員1人除き反対

そこで、日米通信協議で自動車電話が自由化される見通しになった85年、第二電電(DDI)の取締役会で「携帯電話に参入したい」と提案した。しかし、当時のDDIは全国に無線のルートを整備している真っ最中。しかもNTTの自動車電話も赤字、米国でも同じような状態でした。

役員1人を除いて、みんなに反対されました。黒字化まで時間がかかるというわけです。「携帯に参入するのであれば、(普及し始めていた)ポケットベルで利益を上げてからでもいいのでは」という意見もあった。でも、「いや、最初から携帯。今やらんと後手に回る」と押し切った。反対した彼らも国内外の事情を調べてみて、「自動車電話は厳しいけれど、携帯電話ならいける」という考えに変わっていったようです。

次は携帯電話の技術方式をどうするか、という議論でした。

当時のNTTは自らの端末を設計し、技術を握っていました。メーカーはNTT以外に端末を販売するには、手数料を支払う必要もあった。圧倒的に不利です。「NTTの対抗軸となる」という方針を掲げていた我々は、そんなNTT方式ではなく、米モトローラが開発したTACS(タックス)方式を採用しました。このときの判断が、DDIの飛躍につながりました。

 

■「あんこ取られた」

ただ、それからが厄介でした。そのころ、トヨタ自動車系の日本高速通信(TWJ)が「自動車電話なら」と手を挙げていた。しかし、周波数には制約があるので、当時の郵政省は、同じ地域にはNTTのほかに1社しか認めないという。

それぞれの地元は、TWJ系の日本移動通信(IDO)が中部圏、我々DDIは近畿圏。それでは、最も需要が見込める首都圏はどちらがやるか。これは両社とも譲れない。首都圏の周波数を分配する案も出ましたが、それでは中途半端になる。1年経っても調整はつきませんでした。

膠着(こうちゃく)状態が続けば、NTTの独占が続いて国民の利益にならない。結局、首都圏をIDOに譲りました。首都圏と中部圏はIDO、DDIは残りの地域となりました。我々の市場規模は向こうの半分。社内では「地方からきっちり数字を伸ばしていけばいい」と言いました。

ただ、取締役会では社外役員だったセコムの飯田亮(まこと)さんらに「まんじゅうのあんこを全部取られて皮だけやないか」と言われました。そのときは「皮だけでも食べていたら死ぬことはない。負けるが勝ちという言葉もある」と言うしかありませんでした。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

 

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