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(追悼文)肥田舜太郎・被爆医師の人類への献身。 by limitlesslife
March 22, 2017, 3:31 am
Filed under: 肥田舜太郎先生
知人友人の皆さんへ
       杉浦公昭
てぃーだブログ › 平和こそ我が命

 

 (三月二十三日、先に転載の下記文章の校正文ー読者と執筆者の対話から、文章を明確化する為ーが来ましたので掲載します。)

  (追悼文) 肥田舜太郎・被爆医師の人類への献身。
日本科学者会議埼玉支部代表幹事 杉浦公昭

 広島で自ら被爆しながら長年、被爆者の治療をされてこられた、医師で日本原水爆被害者団体協議会顧問の、肥田舜太郎さん(100歳)が20日、肺炎で亡くなられました。

肥田さんの訃報に接し、生前中のご厚意に感謝し、謹んでご冥福を念じます。

肥田さんとの出会いは、私たち日本科学者会議東洋大学工学部分会が「自然と平和を守る集い」を催し、「広島の消えた日」の内容の話をお聴きした時と記憶しています。

軍医として「前線から送られてくる傷病兵を『治癒』すると、再び前線に送られ死んでいくことに矛盾を感じた」と話されました。

肥田さんは、部下の近藤少尉から「貴方のような方が、なぜ職業軍人になられたのか?その道筋の中に、戦争と人間のかかわり合いのようなものが見えるのではないかと思うので、貴方を死に急がせる前に、一緒に考えてみたい」と問われ、いきなり刃物を胸元に突き付けられた思いがしたそうです。

そこで、肥田さんは山好きの中学生が、その時代に翻弄されながら軍医になるまでの話を丁寧に話されましたが、夜も更けたため、近藤少尉としては話を聞くだけに留め、その返事は、後日になって、宛名も差出人の署名もない封書を使い、命がけの遺言ともいえる形で送られてきたそうです。その中に次のような一文が含まれていました。

【貴方に知って頂きたいのは、国民やアジアの何億と言う人々に不幸をもたらした今次の戦争を、無益な侵略戦争としてその危険を予告し、警鐘を鳴らした勇気ある人たちがこの国にもたくさんいた事実です。

 戦争は阻止しなければならないという思想も、知識も、またそのための手段も、まだ限られた少数の人たちのものでしかありません。不幸にも、そうした人たちは獄につながれるか、そうではない場合は心ならずも貝のように口を閉ざさざるを得ない状態に置かれています。

 しかし医学の進歩によって伝染病を克服することができるようになったと同じように、もし、社会の疾患である戦争について、その原因、経過、転帰についての研究がすすみ、克服する手段、方法が明らかになれば、いつかは戦争を予防し、発生を防止することができるようになる筈ではないでしょうか】と書かれていたと言います。

肥田さんは、「私が戦後を生きる考え方の原点になった」と申して居られました。戦争法が施行された今日、私たちが、しっかり噛みしめるべき文章と考えます。

 肥田さんは軍医として働いていた広島で自らも被爆しながら、被災者の救助や治療に当たられました。

 戦後も長年にわたって被爆者の診察を続け、被爆者健康手帳の申請相談などにも応じてこられたほか、地域では長年、「平和のための埼玉の戦争展」の実行委員長も務められ、晩年は、若者を育てるための「平和の学び場・コラボ21」を提唱、物心両面で支えてこられました。平成23年からは日本被団協の顧問も務めてみえました。

 また、アメリカやヨーロッパなど150か所以上を回って原爆の悲惨さを伝える活動を行い、東日本大震災のあとは原発事故による内部被ばくの危険性を訴え続けてこられました。

今日、国連で核兵器禁止のための条約締結に向けての交渉開始を迎えていただけに、さぞかし残念であったろうと推察致します。

今後は私たちがバトンを受け取り、肥田さんの望みであった「核も戦争もない平和で豊かな地球」を目指して頑張ることを誓って、追悼の言葉とさせて頂きます。

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2017年03月22日

  (追悼文)肥田舜太郎・被爆医師の人類への献身。
日本科学者会議埼玉支部代表幹事 杉浦公昭

 広島で自ら被爆しながら長年、被爆者の治療をされてこられた、医師で日本原水爆被害者団体協議会顧問の、肥田舜太郎さん(100歳)が20日、肺炎で亡くなられました。

肥田さんの訃報に接し、生前中のご厚意に感謝し、謹んでご冥福を念じます。

肥田さんとの出会いは、私たち日本科学者会議東洋大学工学部分会が「自然と平和を守る集い」を催し、「広島の消えた日」の内容の話をお聴きした時と記憶しています。

軍医として「前線から送られてくる傷病兵を治癒すると、再び前線に送られ死んでいくことに矛盾を感じた」と話されました。

肥田さんは、部下の近藤少尉から「貴方のような方が、なぜ職業軍人になられたのか?その道筋の中に、戦争と人間のかかわり合いのようなものが見えるのではないかと思うので、貴方を死に急がせる前に、一緒に考えてみたい」と問われ、いきなり刃物を胸元に突き付けられた思いがしたそうです。

そこで、肥田さんは山好きの中学生から、時代に翻弄され軍医が誕生するまでの話を丁寧に話されましたが、夜も更けたため、近藤少尉は話を聞くだけに留め、その返事は、後日になって、宛名も差出人の署名もない、命がけの遺言ともいえる封書で送られてきたそうです。その中に次のような一文が含まれていました。

【貴方に知って頂きたいのは、国民やアジアの何億と言う人々に不幸をもたらした今次の戦争を、無益な侵略戦争としてその危険を予告し、警鐘を鳴らした勇気ある人たちがこの国にもたくさんいた事実です。戦争法が施行された今日、私たちが、しっかり噛みしめるべき文章と考えます。

戦争は阻止しなければならないという思想も、知識も、またそのための手段も、まだ限られた少数の人たちのものでしかありません。不幸にも、そうした人たちは獄につながれるか、そうではない場合は心ならずも貝のように口を閉ざさざるを得ない状態に置かれています。

しかし医学の進歩によって伝染病を克服することができるようになったと同じように、もし、社会の疾患である戦争について、その原因、経過、転帰についての研究がすすみ、克服する手段、方法が明らかになれば、いつかは戦争を予防し、発生を防止することができるようになる筈ではないでしょうか】と書かれていたと言います。

肥田さんは、「私が戦後を生きる考え方の原点になった」と申して居られました。

戦争法が施行された今日、私たちが、しっかり噛みしめるべき文章と考えます。

肥田さんは軍医として働いていた広島で自らも被爆しながら、被災者の救助や治療に当たられました。

 戦後も長年にわたって被爆者の診察を続け、被爆者健康手帳の申請相談などにも応じてこられたほか、地域では長年、「平和のための埼玉の戦争展」の実行委員長も務められ、晩年は、若者を育てるための「平和の学び場・コラボ21」を提唱、物心両面で支えてこられました。平成23年からは日本被団協の顧問も務めてみえました。

 また、アメリカやヨーロッパなど150か所以上を回って原爆の悲惨さを伝える活動を行い、東日本大震災のあとは原発事故による内部被ばくの危険性を訴え続けてこられました。

今日、国連で核兵器禁止のための条約締結に向けての交渉開始を迎えていただけに、さぞかし残念であったろうと推察致します。

今後は私たちがバトンを受け取り、肥田さんの望みであった「核も戦争もない平和で豊かな地球」を目指して頑張ることを誓って、追悼の言葉とさせて頂きます。

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コメント:杉浦先生、追悼文を有難うございました。同じ東洋大学におられて肥田先生の講演会を催されたり、その講演録を発行されたりしている先生に倣って、当方が始めた「地球倫理」のクラスに何度か肥田先生をお招きして公開講演会を催させて頂きました。その時には何時も杉浦先生も参加され講演録を参加者に配布しておられました。ご講演の後肥田先生、杉浦先生と三人で食事をさせて頂いた時の思い出がありありと想い浮かびます。

肥田先生はこの写真のように血行の良い健康闊達で積極的で包容力のあるお人柄が漲った方でした。講演は何時も大変ご高齢にも関わらず立ってご自身の被爆・被爆者達の惨状・診療手当ての体験を躍如として語られ、米軍施設の態度・核被害危険を堂々と批判されました。世界中を巡って原爆惨禍・核危害を訴えられ、世界のメデイアの取材対応・共同製作もされ、Hiroshima Disappearedという英文著書もあり、最晩年に至るも数々の疲れを知らぬ講演活動を続けられました。原爆投下直後からの直接の長い被爆者治療体験から多くの被爆者の治療・相談に献身され、これらは最後まで続けられたでしょう。人間・科学者・医師として真実・平和の為に粉骨砕身された尊い一生だったと思います。あの血行の良く温容な容姿の根底にはその生涯の使命を全うするための身心健全化のご努力があったものと想像します。

情報化・地球化は益々多くの人々に真実・平和の願いを行動を呼び起こしています。核兵器禁止・戦争禁止の運動が世界の人々に提起・推進されつつあります。六人が世界人口の半分の資産を所有するという人工金字塔文明を地球全体一切衆生を含めた全体健全の自然帝釈網文化への枠組み転換をし、一切が真実・平和にその生を全うできるよう私達も努力する事を誓って、肥田先生のご遺志を継ぎましょう。謹んでご冥福を祈ります。