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by limitlesslife

なぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか―「6.24」一周年の思い(その2)

みなさまへ   (BCCにて)松 元

昨年6月24日に始 まったふくしま集団疎開裁判は、昨年12月16日野田首相の「収束宣言」と同日に「却下判決」が下されました。あるいみ肩透かしを食らって敗訴したともいえま すが、14人の子どものためのこのちいさな裁判の背後には、「国際社会」を隠れ蓑に 国連さえも操り、核兵器と密接に結びついた巨大な「国際」原子力ムラの画策がみえてきます。その伏魔殿を後ろ盾にした日本の大資本と 政府・官僚はその一部。首相官邸・国会包囲の 向こうにさらに大きな峰がみえてきます。

 

提訴から一周年を期して、弁護団の 柳原敏夫氏が『「6.24」一周年の思い――な ぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか』と題して、不当判決をもたらした世界の巨大な核(原子力)支配の歴史と画策を 「備忘録」として記しています。著者の許可のもと、3~4回にわたっ て紹介させていただきます。(今回は、目次の6,7(その2))

 

■ふくしま集団疎開裁判ブログ

http://fukusima-sokai.blogspot.jp/

ここでは当該裁判の全貌および世界 市民法廷のほか、次の方々の貴重な意見、声明、メッセージがリンク先から読むことができます。

●意見書および声明

松崎道幸氏、矢ヶ崎克馬氏、山内知 也氏、松井英介氏、沢田昭二氏、クリス・バズビー氏、アイラ・ヘルファンド氏、アーネスト・スターングラス氏、ローレン・モレ氏

●メッセージ

大江健三郎氏、柄谷行人氏、崎山比 早子氏、ノーム・チョムスキー氏、バンダナ・シバ氏、マーク・エングラー氏

 

====以下、(その2)全文転 載=====

 

初出:2012年7月6日金曜日

■「6.24」一周年の思い――な ぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか

 

弁護団 柳原敏夫

目  次

1、はじめに--二度目の 3.11(人災)

2、福島原発事故の未来は原発事故 の過去にある

3、三大政策の1つ「情報を隠すこと」の核心が子どもの被ばく情報だった

4、三大政策の1つ「様々な基準値を上げること」の動機が子どもの疎開を阻止する ためだった

5、なぜキエフで子どもたちの集団 疎開が実現したにもかかわらず、日本では実現しないのか

(以上、(その1))

6、認識をまちがえた善意の献身が 最悪の事態をもたらす――事故直後の犠牲者の殆んどが事故の認識をまちがえた善意の献身者たちで、落命は避けられた人災だった

7、「最も悪いのは放射能を怖がる 精神的ストレス」論の起源はベトナム・シンドローム

(以上、(その2))

8、原子力ムラの御用学者の起源は 「水爆の父」と呼ばれたエドワード・テラー

9、原発事故は形を変えた核戦争で あり、放射線と戦争の原理原則が貫徹される

10、事故5年後に制定された住民避難基準は チェルノブイリの憲法9条である

11、もし住民避難基準がもっと早く事故直後に 制定されていれば98万人余の犠牲は避けられた

12、もし戦争終結がもっと早ければ、ヒロシ マ・ナガサキの悲劇はなかった

13、おわりに--泣くのなら、今思い切り泣 く、5年、10年後には泣かない

 

=====以下、目次の6,7(その2)=====

注:MLによっては、図表が表示されない場合があります。上記リンク先でご確認ください。

6、認 識をまちがえた善意の献身が最悪の事態をもたらす――事故直後の犠牲者の殆んどが事故の認識をまちがえた善意の献身者たちで、落命は避け られた人災だった

原発事故が最も恐ろしいのは、事故の「現実 が見えない」 ことです。私たちは、ふだん、何気なく「現実を見ている」積りになっていますが、それはあくまでも自分でかけていることさえ意識しない 「色メガネ」を通し て現実を自分流に理解しているだけのことです。しかし、私たちの「色メガネ」では放射能をとらえることはできません。 その意味で「放射能は見えな い、臭わない、味もしない、理想的な毒です」 (アーネスト・スターングラス博士の青森市講演(2006年3月))。にもかかわらず、放射能事故の「現実が見える」 と思った人たちは、そのために命を落としたのです。

この「現実が見えない」ことを、七沢潔さんのインタビューを受けたチェルノブイリ原 発の事故当時の運転員ポリス・ストリャルチュウクは次のように語りました。

できれば思い出したくない記憶で す。それは全くひどい夢を見ているようでした。

目の前で起こっていることが、現実の出来事とは信じられなかったのです。(19 頁8行目)

彼が「ひどい夢を見ているよう」だったと語り、「目の前で起こっていることが、現実の出来事とは信じられなかった」と語るのは、一 見、普通の火災事故のように見えた「目の前の出来事」に立ち会った人たちがその後、バタバタと命を落としていったからです。
彼らはなぜ死ななければならなかったのか。 その死は避けられなかったのか。もしそうなら、これを前代未聞の悪夢と呼ぶのは無理もありません。

しかし、彼等の殆んどが落命しなくてもよかった、彼らが命を落としたのは、ひとえに放射能事故の認識をまちがえたためであることが七沢さんの「原発事故を問う」に明らかにされていま す。

事故当日、チェルノブイリ原発4号炉は。まもなく定期点検修理のために停止されるところで、その際、タービン発電機の改良の成果を確認するた めの実験が行われる予定でした。以下は、このとき制御室にいた17名の職員です(副技師長ジャトロフが描いたスケッチ。「原発事故を問う」第1章扉図より)。

制御室の最前列の中央にはユニット主任運転員(任務は冷却水・その循環ポンプの操作)のポリス・ストリャルチュウク、
その左手には原子炉主任運転員(任務は原子 炉の反応と出力の操作)のレオニード・トプトゥーノフ、
右手にはタービン主任運転員(任務はタービンの操作)のイーゴリ・キ ルシンバウム、
これらの後列の中央には4号 炉原子炉ユニットシフト長のアレクランド ル・アキーモフが座り、後部右手の配電盤の前には、チェルノブイリ原発の副技師長のアナトリー・ジャトロフが実験の推移を 見守った。
このとき、ユニット主任運転 員のストリャルチュウクとタービン主任運転員のキルシンバウムは28歳、原子炉主任運転員トプトゥーノフは24歳。
真夜中の午前1時23分4秒、実験開始。実験の目的は、地震などで外部からの電源が遮断され、電源喪失した時、タービンの慣性だけで発電し、 給水ポンプを 動かして原子炉を守ることができるかどうかを確認するための電源テスト--まさに東日本大震災のような大地震に備えての対策でした。
36秒後の午前1時23分40秒、実験終了。予定通り、制御棒を一斉に挿入する緊急停止ボタン(AZ-5ボタン)が押された。ほどなく、原 子炉は無事に停止する筈でした。
しかし、ここから原子炉の暴走が始まりました。 ストリャルチュウクの証言は以下の通りです。

停止スイッチが回されて1,2秒たってからでし た。突然大きな衝撃音が聞こえま した。はっと思いましたが、制御盤の前にいるほかの人が驚いた顔をしているのに気がつき「きっと発電機の音だよ。こういうフラッ トな衝撃は心配ない」と声を出しました。(21頁12行目)

しかし、現実は彼の見通しを裏切りました。

けれども嫌な予感が して、部屋から逃げ出そうと歩き出しました。その時に2 回目の、今度は非常に大きな力を持った爆発が起こりました。天井や壁が剥げて、かけらが落ち、部屋中、ほこりで霧がかかったようにな りました(21頁14行目)。

けれども途方に暮れたのは若い運転員たちだけではなかった。かつて原子力潜水艦の原子炉の技術者として何度も事故に立ち会ったベテラン技術者 の副技師長ジャトロフもまた、このとき、「キツネにつつまれたような時間が続いたという」(22頁10行目)。
ジャトロフの証言。

私は最初、発電機のところで何か起こったのではないかと、あるいは制御保護系のタンクが爆発したのでは、と思いました。
そしてしばらくして、原子炉の制御状況を示す表示器を見て、目が丸くなるほど驚きました。制御棒は炉の半分まで降り、まんなかで止 まったままで、核分裂の反応性は上がっていたからです。

私はすぐうしろで見学していた2人の見習作業員に、原子炉の真上の中央ホー ルに行き、そこにいる作業員に手動で制御棒を原子炉に入れることを伝えるよう指示しました。(22頁11行目)

しかし、ジャトロフはこの指示のあと、自分の認識が間違っていたことに気がつきます(制御棒がサーボモーターにつながったまま動かないのであ れば、手動で も動かない、と)。2人の見習作業員を呼び返そうとしましたが、2人の姿はありませんでした。この2人は原子炉の破壊された中央ホール(以下 の図参照)に 入り、「放射線に身を貫かれて、後日死亡」しました。

しかし、ジャトロフ(のみならずスタッフ全員)はこのあと、またしても認識の間違いをおかします。原子炉そのもの(炉心)が破壊されていると は夢にも思わなかったからです。
タービン主任運転員キルシンバウムの証言。

こんな こと(原子炉そのものの破壊)は教科書にも運転マニュアルにも、どこにも書いてなかったのです。だからそれまでは、原子炉が崩れるなんて ことはありえないとしか思っていなかったのです。(26頁14行目)

その結果、最優先の対策を次のように考えてしまいました。
冷却水が流失した以上、炉心に注水しなければ、メルトダウン(炉心溶融)という大事故につながってしまう。それだけは避けなければならない、 と。
そこで、非常用ポンプのスイッチを入れ、炉心を水で満たそうとしましたが、 非常用ポンプは1台も作動しません。
そこで、ポンプが動かない原因を調べるため、2人の作業員をタービン室へ派遣、さらに2人を手動で非常用冷却装置のバルブを開けるため、中央 ホール付近に送り込まれました。
しかし、水を供給して守るべき炉心は爆発により粉々に吹き飛び、もはや存在していなかったのです。

にもかかわらず、認識をあやまったシフト長 のアキーモフ、原子炉主 任運転員トプトゥーノフは、当日の朝5時のシフト交代後も4号炉に残り、作業員として原子炉に注水するために冷却装置のバルブを開けに出 かけ、大量に被ばくし、24歳の若者のトプトゥーノフは「髪の毛は抜け、放射能汚染水につかった足からは、骨が見えるまで皮と肉がはがれ落ちる」 (112頁)ほどでしたが、2週間後、KGBや検察スタッフからチェルノブイリ事故を引き起こした主犯格級の人物として情け容赦ない尋問の中、あいついで亡くなりました。

中央ホールの周辺では煙が充満し、火災が始まり、にもかかわらず、防毒マスクはなく、備え付けの放射線測定器は振り切れて測定不能の状態でし た。
放射線測定の担当者は、このときの最大値を毎時3.6レントゲン(1 R = 8.7 mGy、1 Gy = 1 Svとすれば毎時約31mSv)と推計しましたが、しかし現実にはその1万倍近い毎時3万レントゲン(毎時約260シーベルト。そこに数分滞在すれば必ず 死に至る)の放射線量でした。
シフト長のアキーモフ、原子炉主任運転員トプトゥーノフが落命したのは当然 でした。
のみならず、この放射線の犠牲となったのが、事故後30分後に駆けつけ、防護服もないまま朝方まで消火活動に励んだ消防隊員でした。

こうした、原子炉の爆発事故の直後に命を落とした人たちの殆どは、、炉心が吹き飛び、大量の放射性物質が放出された事故の現状を正しく認識で きなかったために、なおかつ事故を最小限に食い止めるために身を投げ出すという高い倫理的責任感を貫いために招いた人災です。
もし彼らが事故の現状を正しく認識できていれば、命を落とすまでのことはなかった。

ただし、チェルノブイリ原発の事故の現状を正しく認識できなかったのは副技師長ジャトロフたちの落ち度ではありません。チェルノブイリ原発を 管轄する省庁 (電化電力省)がソ連の原発を管轄するもう1つの奇々怪々の省庁(中規模機械製作省)から、1975年に発生し最近まで隠蔽されていたレニン グラード原発 事故から学んだ教訓(原子炉の構造上の欠陥)を知らされていなかったからです(その詳細は「原発事故を問う」100~107頁)。

その上、「ウソをウソで塗り固める」という言葉の通り、事故発生の責任は「運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ」(1986 年8月IAEAに提出されたソ連政府の事故報告書)とされ、すべて、原子炉主任運転員トプトゥーノフをはじめとする運転員らの運転のせいにされました。
しかし、真実は
「実験が終わるまでは何も起こらなかった。AZ-5(緊急停止ボタン)を回して から出力が上がり爆発した」(シフト長アキーモフ。113頁14行目)
「 AZ-5ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであっ た。出力増などの警報が出たのはボタンを押して3秒後のこどである。」(副技師長ジャトロフ)

ソ連報告書指摘の運転員の規則違反の1つ目「制御棒が『反応度操作余裕』が基準値以下で運転」に対しては、
「 反応度操作余裕が低下していたことも、それでもって運転員が非難され理由 にならない。なぜなら、それを直接示す計器はなかったから」(副技師長ジャトロフ)

ソ連報告書指摘の運転員の規則違反の2つ目「予定以下の低出力で実験(電源テスト)をおこなった」に対しては、
「低出力での運転は禁止されていたというが、その規則は事故後に作られたもので ある」(副技師長ジャトロフ)

なおかつ、運転員は事故発生関する肝心な情報は前もって何ひとつ知らされなかったのです。事故の責任を問われた副技師長ジャトロフは自分たち が置かれた状態をこう表現しました。

 火薬庫の上に知らずに寝泊りすることにひとしい(107頁)

原子炉の構造上の欠陥を隠し通そうとしたことがソ連国家の構造上の欠陥そのものでした。それはチェルノブイリ事故を発生させ、途方もない惨 禍を人々にも たらし、それから5年後、ソ連崩壊・解体を発生させました。チェルノブイリ事故から学び尽くした日本政府も当然そのことを熟知しています。

7、「最も悪いのは放射能を怖がる精神的ストレス」 論の起源はベトナム・シンドローム
(1)、国際連帯の茶番劇第1幕(1986年8月ウィーン)
1986年8月、事故後4ヶ月足らずで、ウィーンでチェルノブイリ事故をめぐるIAEAの国際検討会議が開かれ、ソ連も参加しまし た。これはソ 連と欧米の西側諸国が、チェルノブイリ事故により放射能汚染が世界中に広がり、各国で原子力エネルギーに対する市民の反感が強まって くることを警戒し、そ れに対抗することで利害が一致し、「原子力推進体制を守る」という共通の利益のために共同歩調を取ったもので、国際連帯の茶番劇の第 一幕でした。なぜな ら、報告に立ったソ連代表団長レガソフ(事故から2年目の1988年4月26日自殺)は、事故の原因である原子炉の制御棒の構造上の問題と事故の最 大の被害者である「子どもたちの被ばくデータ」を隠蔽した上で(136頁末行~)、事故の原因は36秒もかかった実験について、

運転員たちは早く実験を完了させること を焦るあまり、実験の準備、実行にあたって指示に従わず、実験計画書そのものを無視し、原子炉を取り扱う細心の注意を払わなかった。(129頁13行目)

このような「運転員たちが犯した危険極ま りない規則違反」であると指摘し、他方、事故による被害については、子どもたちの被ばくデータを隠した上で,

一連の対策によって住民の被ばく線量を許容限度 内におさめることが可能になった(130 頁1行目)

と政府の緊急対応の成果を自慢気に披露した のに対し、IAEAの西側諸国は、このウソ八百のレガソフの率直な報告を好意的に受け入れ、ソ連事故報告書を全 面的に了承したからです。副技師長ジャトロフはこう証言しました。

事故の原因は原子炉の構造的な欠陥 であり、その責任はそれを知りながら対策を講じなかった人々にある。‥‥1986年のソ連報告書は偽りだらけであり、そうした報 告をなぜIAEAが鵜呑みにできたのか理解できない。

(2)、国際連帯の茶番劇第2幕(1991年5月ウィーン)
今年 3月来日したベラルーシの研究者M.V.マリコ氏は、郡山市での講演 のあと、次のような話をしてくれました。

 自 分たちはチュルノブイリ事故による放射能汚染地図を作成したのに、当時その地図を知っているのは(政府高官以外は)わずかに自分たちの 研究所のスタッフ数人だけでした。

しかし、3年後の1989年春、この汚染地図が初めて新聞紙上に公表され、大きな反響を呼びます。例えば、それまで原発から150キロ以上 離れたゴメリ 州(当時、白ロシア共和国。現在のベラルーシ)に住む人々はゴメリ州に原発周辺に匹敵する汚染地域が存在することを知ったからです(今中哲二さんの解説を参照)。その頃には、これまで全世界に隠していた「子どもたちの被ばく データ」について、子どもたちの間に甲状腺障害など現実の健康被害があらわれ始めていました。

しかし、ソ連政府は、「生涯70年間で35レム(350mSv)までの被ばくは許容される」「汚染地域の住民は避難しなくても十分安全であ る」というイリイン・ソ連医学アカデミー副総裁の見解に基づいて何も手を打とうとしませんでした。

その結果、住民のソ連政府、ソ連の放射能専門家に対する不信は手がつけられないほどに加速しました。困り果てたソ連政府がそこで思いついた打 開策は、事故 直後に大成功を収めたIAEAとの国際連帯の茶番劇の再演でした。ソ連市民が自国の専門家はもう信用できないと言うのであれば、最後の切り札 として国際的 な権威に登場してもらい、ソ連市民を黙らせるというやり方でした。
1990年、ソ連政府の要請を受けたIAEAが白羽の矢を立てたのが、核戦争遂行のための研究機関ABCCの日本側代表、ABCCを引き継い だ放影研の元理事長を歴任し、秘蔵っ子ミスター100ミリシーベルトを育て、今年2月に亡くなった重松逸造氏です。

重松氏を委員長とした国際諮問委員会のもとに各国から200人の専門家を集め、国際チェルノブイリプロジェクトを開始し、1991年5月、 ウィーンでプロジェクトの報告会が開かれました。その結論は次のようなものでした。

汚染地帯の住民のあいだに、チェルノブイリ事故による放射線による影響は認められない。ソ連政府の出したデータはおおむね正しく、とられ てきた汚染対策も 妥当である。むしろ「放射能恐怖症」による精神的ストレスの方が問題である。ソ連政府が取る「1平方km当り40キュリー以上の汚染地 帯」という避難基準 ですら厳しすぎる。(238頁末行)

この二度目の茶番は公正なる調査結果を期待したチェルノブイリ地元市民と地元政府の失望と不信を買うという成果しかあげることができず、国 際的な権威で ソ連市民を黙らせようという当初の思惑は崩れ、事態は正反対の方向に進んでいきました。ソ連最高会議は、とうとう、それまでの1平方km当り 40キュリー 以上という避難基準を15キュリー以上と改め、15キュリー以上の汚染地域住民約27万人全員の避難を決議したのです。
七沢氏のコメント。

政府はそれまで必死 に避けようとしていた大量の住民避難にかかる高額な財政 支出を、この時ついに負担することになった。(239頁9行 目)

しかし、瀕死のソ連はその夏、アル中の党官僚たちによるクーデターとその失敗を経て、12月、住民避難の決議を実行しないまま崩壊・解体しま す。

(3)、「放射能恐怖症」による精神的ストレスの起源

原発事故後の健康被害の原因として、放射能よりも「『放射能恐怖症』による精神的ストレス」の影響のほうが大きい、という議論があります。思わ ず、「いま どき、何バカなことを言っているのか」と笑って済せたくなるのですが、そうはいきません。なぜなら、これは疎開裁判で、チェルノブイリ事故との比 較検討を 最重要な論点として主張している原告に対する被告郡山市の反論の柱の1つになっているからです(平成24年4月17日答弁書14頁(エ))。

そもそも、なぜ、こんな精神論が今なお堂々と幅を利かせているのだろうか。それは、現実に、チェルノブイリでも福島でも、うつ病などの精神的被害 の発生が 深刻だからです。しかし、その原因は、マスコミに登場する殆どの学者や政治家は「直ちに影響はない」「逃げなくても心配ない」と安全を宣伝しなが ら、他方 で、自らまたは自分たちの家族をチェルノブイリや福島に引越して復興に取り組むような素振りは全く見せず、その口先だけの偽善者ぶりに誰も信用で きなくな るという状況に精神的にすっかり参ってしまうからです。

しかし、 「『放射能恐怖症』による精神的ストレス」論を説く人たちは、それは御用学者や政治家が悪いのではなく、放射能を怖がる皆さんひとりひとりの心の持ち方が 悪いのだと説きます。そこから導かれる解決策は「放射能を怖がる精神を、怖がらないように悔い改めること。なぜなら、心の持ち方が健康被害の主要 な原因で あり、これさえ克服すれば健康被害はなくなる」、これに尽きます。

ところで、この精神論はチェルノブイリが最初ではありません。1960年代から、ベトナム戦争に対し、「市民の中で、軍事力という暴力の行使を否 定する病 的な拒絶反応」が生じたこと」を、ベトナム戦争後遺症(ベトナム・シンドローム)と名づけ、国家の側では、この慢性病を追い払い、打ち負かすため の数々の 努力が傾けられてきました。 「軍事行動の価値」を重視するという考え方を市民の頭に叩き込む必要がありました。さもないと、なぜ世界のあちこちへ行っては、人を拷問し、殺害し、絨毯 爆撃などをする必要があるのか、理解できなくなるからです。

 8以下、未完成。

(以上、(その2)転載終わり、(その3)に続く)

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