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戦後70年を迎えるにあたっての弁護団声明(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・・・) by limitlesslife
転送です。
(さいたま市 石垣敏夫)
戦後70年を迎えるにあたっての弁護団声明
2015 年8月12日
中国人戦争被害賠償請求事件弁護団
団 長 弁護士 小野寺 利孝
中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団
山西省「慰安婦」1次2次訴訟弁護団
七 三一部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟弁護団
旧 日本軍遺棄毒ガス・砲弾被害事件訴訟弁護団
平頂山事件訴訟弁護団
海南島戦時性暴力被害事件訴訟弁護団
遺棄化学兵器被害チチハル事件弁護団
遺棄化学兵器被害敦化事件弁護団
1 中国人戦争被害賠償請求訴訟の成果
本年は第二次世界大戦が終結してから70年の節目の年にあたる。
戦後70年の最後にあたるこの約20年間、私たち弁護団は中国人戦争被害
者の代理人として日本の裁判所における戦争被害賠償請求の訴訟事 件を担い、
数多くの判決を得てきた。それは、被害者の被害と尊厳の回復を図るとともに、
それを加害国たる日本の社会において実現すること によって、日本の社会の反
省と誓いを示し、以て東アジアにおける友好と平和を達成しようと念願したため
でもあった。
私たちの得た判決のうちのあるものは被害者らを勝訴させ、あるものは敗訴
させた。しかし、勝敗の結論如何にかかわらず、多くの判決が、侵 略戦争の遂
行過程における加害の事実と被害の事実を多数認定した(そのうち主だったもの
の概要は別紙「判決が認定した加害と被害の事実の 概要」のとおりである)。
加害と被害の事実を客観的に明らかにすることは、被害者加害者間の謝罪や賠
償、和解の基礎となるものであり、そ れが事実認定に関する最高の公権力機関
たる裁判所によってなされた意義は極めて大きい。
特に日本軍「慰安婦」問題をめぐって、朝日新聞による記事撤回が拡大解釈
され、被害事実自体が存在しなかったかのような誤った論調がみら れる現在、
特に政府が「慰安婦」問題に関して虚偽を述べながらこれを撤回せず維持し続け
るという、信じ難い異常な事態(注)が起こってい る現在においては、裁判所
による事実認定の意義はなおいっそう大きいものである。
また、裁判所が、加害と被害の事実を直視し、解決を促した例も少なくない
(別紙「付言集」参照)。その典型例は、2007年4月27日の 西松建設中
国人強制連行事件最高裁判決(被害者ら代理人は西松訴訟弁護団)であり、これ
を受けて2009年から2010年にかけ、西松建 設と多くの被害者(本人な
いし遺族)との間において和解の成立をみた。被害者団体は、この和解にあた
り、「加害者が事実を認め、深く反省 して謝罪したことは、痛ましい教訓を人
類の記憶として残し、歴史の悲劇を繰り返さないため」に有意義であり、これに
より「人類社会に正義 と希望を見出すことができた」との声明を発表した(別
紙「日本に強制連行された中国人労工聯誼会信濃川分会声明」参照)。このこと
は、加 害者が真摯に反省し謝罪すれば、例え、賠償額等について不十分さを残
したとしても、被害者もこれを受け入れる努力をなし得るし、そのこと が平和
友好の礎となり得ることを示した好例である。
2 日中両国市民による歴史和解と平和への実践
更に、忘れてならないことは、日中両国の市民が、戦争賠償請求訴訟を通じ
て互いに理解と信頼を深め、裁判が終わった後もなお、被害者救済 のために、
また、二度と戦争による加害と被害を繰り返さないために連帯して行動を続けて
いることである。
例えば、遺棄毒ガス被害事件弁護団と日本の支援者は、訴訟活動と並行して
日本政府に対する政治解決要求運動に取り組みつつ、中国で被害者 の健診活動
を行うなどの支援を続けてきたが、こうした医療支援を進める目的で、このた
び、日中両国の民間団体が協力して「化学兵器及び細 菌兵器被害者支援日中未
来平和基金」を設立するまでに至った。また、平頂山事件では、被害者らと日本
の弁護士・市民らが心の交流を育み、 二度と再び平頂山事件の悲劇を繰り返さ
ないための、日本と中国の歴史和解と真の平和友好を願う共同の活動を現在も活
発に続けている(別紙 「戦後70年 平頂山事件を通じて日中の歴史和解を考
える」参照)。
私たちは、こうした両国市民の実践こそが、日本と中国の歴史和解を進め、
国家間の平和と安定を図る推進力であると確信する。
3 日本政府がなすべきこと
過去に日本は、国策を誤り、植民地支配と侵略戦争を遂行し、アジア諸国を
はじめとする各国において甚大な被害を生ぜしめた。また国内にて も甚大な戦
争被害が生じた。そのような国家的過ちに対する痛切な反省と、二度と戦争を起
こさないとの誓いの上にたって、徹底した恒久平和 主義を掲げた日本国憲法に
基づき、平和国家としての歩みを指向してきたのがこの70年間の日本であった。
今、日本がなすべきことは、中国・朝鮮を仮想敵国視し、日本を再び戦争の
惨禍へと導く憲法違反の安保法制を成立させることではない。日本 政府がなす
べきことは、過去の侵略戦争の事実を客観的に認識し、誤りを認め、深く反省
し、被害者に対し、誠実に謝罪することである。その ことが、近隣諸国との平
和友好関係を築き、日本とアジアの真の安全保障を図る上では不可欠であり、日
本国憲法の恒久平和主義の理念を具現 化する道でもある。
私たちはこの思いから、日中両国の心ある人々と手を携えて活動を行ってき
た。今後とも、この思いを抱いて一刻も早い日中の戦後補償問題の 解決を目指
すとともに、アジア諸国民との真の友好と平和のために一層の尽力をなすことを
誓うものである。
(注) 日本軍「慰安婦」問題についての安倍内閣の虚偽答弁 問題
1 第1次安倍内閣は、 2007年3月16日付け「衆議院議員辻元清美君提
出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書」(内閣衆質
一六六第 一一〇号)において、「(河野官房長官談話と)同日の調査結果の発
表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行 を直
接示すような記述も見当たらなかったところである。」と答弁した。
2 しかし、実際には、上記 1993年8月4日の政府発表「いわゆる従軍慰
安婦問題の調査結果について」に含まれている「バタビア臨時軍法会議の記録」
には、訴追さ れた日本軍人の「判決事実の概要」として、「一九四四年二月末
ころから同年四月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性ら(引用者註:
「ジャワ島セラマンほかの抑留所に収容中であったオランダ人女性ら」を指す)
に対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、 脅すなどして売
春を強要するなどしたような戦争犯罪行為を知り又は知り得たにもかかわらずこ
れを黙認した」等と記載されている。これはま さに、上記の第1次安倍内閣の
答弁が「見当たらなかった」とした、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接
示すような記述」である。
(なお、念のため述べると、被害者を強制連行して「慰安婦」としたという
加害事実は、河野談話発表後も、私たち弁護団が担当した訴訟事件 において、
最高裁判決を含む多くの判決で認定されている。)
3 第2次安倍内閣は、この 「バタビア臨時軍法会議の記録」を河野談話発表
以前に政府が保有していたことを認めた(2013年6月18日付け「衆議院議
員赤嶺政賢君 提出強制連行の裏付けがなかったとする二〇〇七年答弁書に関す
る質問に対する答弁書」(内閣衆質一八三第一〇二号))。
これを認めた以上、2007年の答弁は撤回ないし訂正されるべきことにな
るが、驚くべきことに第2次安倍内閣は上記2013年答弁書にお いて、政府
の認識は2007年答弁書と同じである旨を述べて撤回も訂正もしない姿勢を示
している。
以 上
以下略:
(別紙)判決が認定した加害と 被害の事実の概要
(別紙)付言集
(別紙)日本に強制連行された 中国人労工聯誼会信濃川分会声明
(別紙)戦後70年 平頂山事 件を通じて日中の歴史和解を考える
【中国人戦争遺留問題 解決提 言】
(別紙)日本政府への提言 日 本軍「慰安婦」 問題解決のために
(別紙)中国人強制連行・強制 労働事件の全面解決提言
(別紙)遺棄化学兵器の被害者 に対する人道的支援を求める要請書


戦後70年:毎日新聞特集:アジアは一つだったか? by limitlesslife
August 19, 2015, 8:19 am
Filed under: WWII(第二次世界大戦)、太平洋戦争

 1945年8月15日。多くの尊い命が犠牲になった太平洋戦争の終結から、70年の節目を迎えました。「戦後70年」は、そうした戦争の歴史を振り返るとともに、戦後の復興の歩みをたどる特集です。



ビジュアル年表:太平洋戦争 1941~1945年 (毎日新聞) by limitlesslife
August 19, 2015, 8:16 am
Filed under: WWII(第二次世界大戦)、太平洋戦争

1945年に太平洋戦争の終戦を迎えてから、来年2015年で70年の歳月が流れようとしています。戦争を体験した世代は年々減っており、戦争の記憶は私たちの周りから風化しつつあります。当時の「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」(ともに現「毎日新聞」)が撮影した写真や発行した紙面などで、太平洋戦争の歴史を一緒にたどってみませんか。【デジタル報道センター】

1941/12/8(月) 真珠湾攻撃

  • 現地時間12月7日(日)に日本海軍の空母6隻を基幹とする機動部隊が、米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。米太平洋艦隊を壊滅させた。この直前には日本陸軍が当時英国領だったマレー半島に上陸し、英国軍と交戦。いずれも宣戦布告前の奇襲攻撃で、米国の世論は憤激した。この日から太平洋戦争が始まった。

  • 1941年12月9日(火) =大阪毎日新聞
    見出しは「宣戦布告の大詔渙発」。大詔(たいしょう)は、天皇が広く国民に告げる言葉のことで、渙発(かんぱつ)は詔勅を広く国の内外に発布すること。

1941/12/25(木) 香港占領

  • 日本は欧米の植民地主義の打倒を旗印に掲げ、アジア各地に進軍した。開戦1カ月足らずで、アヘン戦争中の1841年に占領されて以来、1世紀の間英国領だった香港を手に入れる。日本軍は「解放者」として、「大東亜共栄圏」の確立を目指した。

  • 1941年12月26日(金) =東京日日新聞
    横見出しは「香港陥落 二十五日午後五時五十分」、縦見出しは「英軍遂(つい)に白旗 降服を申出(もうしい)づ 猛攻八日間・我方停戦す」。

1942/2/15(日) シンガポール占領

  • 英国の、東洋における植民地支配の要を、日本陸軍が陥落させた。指揮官の山下奉文中将はその勇猛さから「マレーの虎」とたたえられた。シンガポールは「昭南島」と改名され、日本の占領統治が始まった。後に「華僑虐殺事件」を引き起こし、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれた。

  • 1942年2月16日(月) =大阪毎日新聞
    主な見出しは「シンガポール陥落」「英軍、遂(つい)に白旗を掲げて降服 きのう(昨日)午後七時五十分」。

1942/4/18(土) 東京など本土に初の空襲

  • 日本本土が初めて空襲に見舞われ、防空体制の不備があらわになった。米陸軍のドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が空母「ホーネット」を飛び立ち、東京、名古屋、神戸などに爆弾を投下した。

  • 1942年4月19日(日)夕刊 =東京日日新聞
    見出しは「京浜に敵機来襲 九機を撃墜撃退す 皇室御安泰に渡らせらる」。

1942/5/10(日) フィリピンの米軍が降伏

  • フィリピンの米軍部隊が一部を除き、降伏した。極東陸軍司令官だったマッカーサーは、「アイ・シャル・リターン」の言葉を残し、3月にフィリピンを脱出。すでにオーストラリアに移っていたため、その姿は無かった。バターン半島で投降した米軍捕虜を収容所に移動させる際に多数死亡させ、「バターン死の行進」と呼ばれている。

  • 1942年5月8日(金) =東京日日新聞
    横見出しは「コレヒドール陥落」。コレヒドールはルソン島マニラ湾の入り口に浮かぶ小島。司令部が置かれたコレヒドールの守備隊が5月6日に降伏。南部のミンダナオ島も10日までに降伏した。

1942/6/7(日) ミッドウェー海戦

  • 太平洋戦争のターニングポイントとなった。それまで常勝と言われた日本海軍機動部隊は主力空母4隻を一挙に撃沈され、歴戦の航空機搭乗員を多数失った。米軍は日本軍の暗号を事前に解読。空母の損失は1隻だけだった。

  • 1942年6月11日(木) =大阪毎日新聞
    横見出しは「東太平洋全海域を制圧」。縦見出しは「ミッドウェー島を猛攻撃 米航空母艦二隻撃沈 我方も空母二隻撃沈破 アリューシャン要衝攻略」。この記事のもとになった大本営発表の内容は、実際の戦果とは違っていた。大本営発表はミッドウェー海戦の敗北を隠し、脇役のはずのアリューシャン攻略の方に焦点を当てている。

1942/8/7(金) 米軍がガダルカナル島上陸

  • 米軍は、日本軍が飛行場を建設していた南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島に本格的な反攻を開始。敵の戦闘能力を甘く見た日本陸軍は、部隊の逐次投入という失敗を犯す。補給が途絶え、食べるものもない「餓島」からの撤退は翌年2月から始まったが、大本営発表では「転進」と取り繕われた。

  • 1943年2月10日(水) =毎日新聞
    縦見出しに、大本営が苦心した造語「我軍他に転進」の文字が見える。当時の社内文書「検閲週報」には「今後は『戦略展開』ないしは『転進』の文字を使用し『後退展開』の字句は使用せぬよう願いたい」という軍の指示が残っている。これに違反すれば、新聞は発売禁止になり、場合によっては新聞の発行停止から廃刊にも至る厳しさだった。

1943/4/18(日) 山本五十六が戦死

  • 真珠湾攻撃を立案した国民的英雄、山本五十六連合艦隊司令長官の死は、前途への不安を抱かせた。前線視察中のブーゲンビル島(パプアニューギニア)上空で、山本司令長官の搭乗機は待ち受けていた米軍戦闘機に撃墜された。ミッドウェー海戦と同様、米軍による暗号解読の結果だった。

  • 1943年5月22日(土) =毎日新聞
    縦見出しは「山本連合艦隊司令長官戦死」「機上で指導中敵と交戦」。山本の死は1カ月以上秘密とされ、5月21日の大本営発表で公になった。ちなみに「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」を発行していた「大阪毎日新聞社」は1943年1月に社名を「毎日新聞社」に改称、題号を「毎日新聞」に統一した。

1943/5/29(土) アッツ島玉砕

  • アリューシャン列島のアッツ島に上陸した米軍を迎え撃った日本軍は約2600人が戦死し、生存者は捕虜となった30人足らずだった。「玉砕」という言葉が初めて、公式の大本営発表で使用された。戦局の悪化に伴い、「一億玉砕」などのスローガンが唱えられるようになっていく。

  • 1943年5月31日(月) =毎日新聞
    横見出しは「壮烈の極(み)アッツ島守備部隊」、縦見出しは「二万の敵大軍に突入」「大打撃与え全員玉砕」「山崎部隊長以下二千余」。

1943/9/8(水) イタリア降伏

  • 日独伊を中心とする枢軸国の敗勢は覆うべくもなかった。独裁者ムソリーニが失脚したイタリアは、後継のバドリオ内閣が連合国と休戦した。翌1944年6月6日には連合国軍は仏ノルマンディーに上陸し、ドイツの敗北も時間の問題となった。

  • 1943年9月10日(金)夕刊 =毎日新聞
    縦見出しは「伊“単独不講和”を裏切る」「帝国・盟邦と協力滅敵へ」。「事態を想予、万全の措置」の文字も見える。

1943/10/21(木) 学徒出陣

  • 総力戦を戦うため、日本政府は国民の徹底的な動員を進めた。文科系学生らについても、それまで猶予されていた徴兵検査(20歳)が実施された。この日、東京・明治神宮外苑競技場などでは「出陣学徒壮行会」が開かれた。

  • 1943年10月21日(木)夕刊 =毎日新聞
    紙面の写真は明治神宮外苑競技場での行進。縦見出しは「われぞ御楯(みたて)学徒総出陣の日」「眉あげて“仇敵(きゅうてき)撃たむ”」。

1943/11/5(金) 大東亜会議開催

  • 戦争の大義として、日本は「大東亜共栄圏」を掲げた。フィリピン、ビルマ、タイなどの元首らが東京に集まり、翌6日に自主独立などの理念を込めた共同宣言を発表した。日本の支援を受け誕生した満州国や南京国民政府(汪兆銘政権)も参加している。

  • 1943年11月5日(金) =毎日新聞
    横見出しは「けふ(きょう)“大東亜会議”開く」。縦見出しは「共栄代表帝都に参集」「完勝と大建設を練る」「世界に示す東亜の総力」。

1944/3/8(水) インパール作戦開始

  • 連合国側が中国支援に使った援蒋ルートの遮断を狙い、陸軍はインドに侵攻した。しかし、輸送用の牛などを食料にも転用する「ジンギスカン作戦」はすぐに破綻。補給途絶に加え、英軍の反撃も受け、日本軍の撤退路は死屍(しし)累々の「白骨街道」と呼ばれた。補給の軽視は太平洋戦争を通し、日本軍の一大欠陥だった。

  • 1944年3月11日(土) =毎日新聞
    縦見出しは「中部緬印(ビルマ、インド)国境侵入の 敵撃滅の火蓋(ひぶた)」「チン丘陵地帯 英印軍を捕捉」。「敵・早くも大混乱」「一斉猛進撃」の文字も躍る。

1944/4/17(月) 大陸打通作戦開始

  • 日本が米英との戦争に踏み切った理由の一つは、泥沼化した中国との戦争を打開することにあった。陸軍は蒋介石の国民党政府に最後の攻勢に出たが、戦果は不十分。大陸はあまりにも広大で、「点と線」を支配することしかできなかった。

  • 1944年5月4日(木) =毎日新聞
    縦見出しは「北支に進攻作戦展開」「鄭州、許昌攻略」「黄河を渡り猛進撃」「敵反攻に先制痛撃」「要衝続々占領」。大本営発表の原稿に、従軍記者の原稿も付けられている。

1944/6/19(月) マリアナ沖海戦

  • 開戦2年半余。人的資源においても、軍事技術においても、日米の差は明らかだった。翌20日まで、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で日米両軍合わせて24隻の空母が激突し、日本機動部隊はほぼ全滅した。練度に劣る日本軍パイロットは米軍のレーダー網に早期に捕捉され、米艦に次々と撃ち落とされた。米軍はこの圧倒的な勝利を「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。

  • 1944年6月21日(水) =毎日新聞
    横見出しは「太平洋今や重大段階」。縦見出しは「マリアナ付近出現の 大機動部隊を猛攻」「サイパンでも激闘中」「敵艦隊の大半を集中」。大本営発表にある「撃沈 戦艦一隻……」などの戦果は見出しに取られていない。

1944/7/9(日) サイパン陥落

  • 1920年に日本の委任統治領となっていた南洋諸島。開戦時には既に多数の日本人居留民が暮らしていた。そのため、日米両軍の戦闘に巻き込まれ、多数の犠牲者が生じることになった。サイパンでは自決者が飛び降りた崖が「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ」と呼ばれている。

  • 1944年7月19日(水) =毎日新聞
    横見出しは「サイパン全将兵、壮烈なる戦死」。縦見出しは「七日最後の突撃」「三千の傷兵自決」など。当時の情報局は7日で戦闘が終結したとして、「本土決戦」に向けて報道を誘導する方針を打ち出していた。大本営がサイパンの玉砕を発表したのはその11日後の18日。不利な戦況はもはや隠せないとして、国民に覚悟を促すことを狙った内容に変わった。

1944/10/23(月) フィリピン(レイテ)沖海戦

  • 25日まで、フィリピン周辺の海域で米軍と海軍が激突。この最後の艦隊決戦で、日本の連合艦隊は事実上、壊滅した。日本軍は、正攻法での敵艦攻撃はもはや戦果が期待できないと、特攻作戦を採用。そのなかで、初出撃の神風特別攻撃隊が米軍の護衛空母1隻を撃沈した。体当たり攻撃は「統率の外道」とされながらも、日本軍の通常の戦術となっていく。

  • 1944年10月29日(日) =毎日新聞
    縦見出しは「翼の軍神・敷島隊五将士」「愛機に爆装、体当たり」「敵艦もろ共(とも)

  • 1945/2/19(月) 米軍の硫黄島上陸

    マリアナ諸島を発進する「超空の要塞(ようさい)」B29爆撃機による空襲で、日本は継戦能力を失いつつあった。米軍は日米の中間地点に飛行場を確保するため、硫黄島の攻略を目指した。洞窟陣地に籠もった日本軍は全滅し、本土空襲は激しさを増していく。

  • 1945年2月21日(水) =毎日新聞
    横見出しは「敵遂(つい)に硫黄島に上陸」。縦見出しは「舟艇百隻を連ねて 南海岸から侵入す」など。

1945/3/10(土) 東京大空襲

  • 民間人に恐怖を与え、戦意をくじくことは重要な戦略だった。米軍は命中精度の低い高高度精密爆撃から、夜間の低高度じゅうたん爆撃に転換。燃えやすい日本の家屋の特性を利用し、焼夷(しょうい)弾による帝都・東京の壊滅を図った。

  • 1945年3月11日(日) =毎日新聞
    見出しは「B29 百三十機、帝都夜襲」「市街地盲爆・火災朝迄(まで)に鎮火」「五十機に損害 撃墜十五機」など。

1945/3/26(月) 米軍沖縄上陸 / 戦艦大和沈没

  • 「本土決戦」が近付きつつあった。沖縄は多数の県民が地上戦に巻き込まれ、「本土防衛の捨て石」にされたとも言われる。日本軍は特攻作戦をさらに強化。海軍の象徴だった戦艦大和は沖縄に向かう途中、4月7日に、敵艦に一発の砲弾も放つことなく、米軍の航空攻撃で沈められた。

  • 1945年3月28日(水) =毎日新聞
    横見出しは「南西諸島に敵上陸」。縦見出しは「二十五日一部兵力 慶良間列島へ」「機動部隊二十三日来 沖縄本島を砲爆撃」など。

1945/8/6(月) 広島に原子爆弾投下 ・ 1945/8/9(木) 長崎に原子爆弾投下

  • 原子爆弾の開発をルーズベルト米大統領に進言したのはアインシュタインだった。このユダヤ系ドイツ人亡命科学者は、ナチスが先に原爆開発に成功し、第二次世界大戦に勝利することを恐れていたとされる。実際にドイツはもちろん、日本でも仁科芳雄、湯川秀樹両博士らが研究に取り組むなど、原爆開発の理論自体は確立されていた。ドイツは1945年5月に降伏し、原爆は抵抗を続けていた日本に投下された。

  • 1945年8月8日(水) =毎日新聞
    広島に原爆が投下されたことを伝える紙面。見出しは「B29、広島に新爆弾」「軽視許さぬ其(その)威力」「速やかに対策を樹立」など。毎日新聞広島支局は一瞬で姿を消し、1人生き残った記者は郊外に逃げ出すのが精いっぱいだった。原稿は翌7日の大本営発表をもとにしている。長崎原爆の投下時は長崎支局の3記者が生き残り、当日の取材内容を座談会形式の記事にまとめた。だが、軍部の検閲で原稿は約5分の1に削られたという。

1945/8/9(木) ソ連参戦

  • 独ソ戦でドイツが優勢だった1941年7月には、ソ連侵攻も計画していた日本。しかし、連合国軍との「本土決戦」が不可避とみられるなかで、そのソ連に和平の仲介役を頼んだ。日本のご都合主義は砕かれ、ソ連軍は国境を越え戦闘を開始。満州の日本人開拓団員らは戦火にさらされた。無敵と言われた関東軍の面影は無く、捕虜たちにはシベリア抑留の運命が待っていた。

  • 1945年8月10日(金) =毎日新聞
    横見出しは「ソ連・帝国に宣戦 九日零時」。縦見出しは「満ソ国境二正面に 越境・攻撃を開始」など。

1945/8/15(水) 玉音放送・ポツダム宣言受諾

  • 米英中が7月26日に発表した「ポツダム宣言」に対し、鈴木貫太郎を首班とする日本政府は「黙殺」との方針を示していた。しかし、ソ連参戦と2発の原爆投下が宣言受諾を方向付けた。徹底抗戦を叫ぶ陸軍の一部将校らが皇居を襲撃したが、15日未明までに鎮圧。昭和天皇の肉声を録音した「玉音盤」がラジオで放送され、国民に降伏が伝えられた。

  • 1945年8月15日(水) =毎日新聞
    天皇が国民に「ポツダム宣言受諾」を告げる詔書は14日夜遅く、首相官邸で発表された。東京の編集局は押し殺したような静けさの中、紙面化したと伝えられている。この15日付朝刊はラジオ放送の正午まで配達されなかった。大阪本社の16日付社会面には後に作家となる報道部の井上靖が「一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ新発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは今日も明日も筆をとる!」と覚悟を記している。

参考文献:防衛研修所戦史部「戦史叢書」朝雲新聞社▽鹿島平和研究所「日本外交史」鹿島研究所出版会▽ジョン・キーガン編「第二次世界大戦歴史地図」原書房――など

参考文献

  • 「戦史叢書」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「太平洋戦争」 児島襄
  • 「『毎日』の3世紀 新聞が見つめた激流130年」 毎日新聞社
  • 「日本史年表・地図」 児玉幸多
  • 「角川日本史辞典」

参考文献

  • 「戦史叢書」 防衛庁防衛研修所戦史室
  • 「太平洋戦争」 児島襄
  • 「『毎日』の3世紀 新聞が見つめた激流130年」 毎日新聞社
  • 「日本史年表・地図」 児玉幸多
  • 「角川日本史辞典」