中川秀直元自民党幹事長の「転向」 原発再稼働は亡国の政策

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中川秀直元自民党幹事長の「転向」 原発再稼働は亡国の政策

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官房長官などの要職を歴任した中川秀直・元自民党幹事長(77)が、原発廃止とエネルギー政策の転換を求めて活動している。安倍晋三前首相らの出身派閥、清和政策研究会(清和会、現在の細田派)の代表世話人を務めたこともある政治家が、政界引退後の今、「原発再稼働は犯罪的。亡国の政策だ」とまで言い切るのはなぜなのか。東京都内の事務所を訪ねて疑問をぶつけた。

「全部ウソだったと分かったからですよ。原発の『安全』『安価』『安定』、すべて虚構でした」

中川氏の答えは明快だった。喜寿とは思えぬエネルギッシュな表情で、180度「転向」した理由を切々と説明し始めた。

 「信じていたんです。資源のない日本で、温暖化を防ぎながら、しかも安いエネルギーは原子力しかないと。日本の原発は『多重防護』で守られていて、原子炉格納容器は絶対に壊れないと専門家から説明されていた。自分でも勉強して、そう確信していました」

ところが2011年3月11日、東京電力福島第1原発は東日本大震災の激しい揺れと大津波に直撃され、3基がメルトダウン(炉心溶融)。東電が「絶対に壊れない」と主張してきた格納容器の底が抜けて核燃料が溶け落ち、建屋が爆発して大量の放射性物質が大気中にばらまかれたのだ。あの日、中川氏は目が覚めたという。

 「政府も東電も我々も皆、間違っていた。政治、行政、司法や産業界、学界、労働界、マスコミまでが安全神話を振りまき、とりつかれてきた。なのに事故は『想定外』だったとして、誰も責任を取っていません」

事故から10年たっても、東電はいまだに推定880トンもの溶融燃料(核燃料デブリ)を手つかずのまま取り出せていない。これは米スリーマイル島原発事故の7倍近い量だ。仮に取り出せたとしても、どこで保管し、どこで処分するかは今も決まっていない。一方で高濃度の汚染水が発生し続け、敷地内の土壌自体も汚染が止まらない。この汚染土も外部に運び出しようがない。

 深刻なのは、事故後に16万人が故郷を追われ、そのうち数万人が今も避難生活を余儀なくされていることだ。「10年前の今ごろは首都圏を含む5000万人が避難を強いられる一歩手前だった。原発事故が起きると、国がなくなる恐れがある。亡国の道具と言っていい。なのに今だけ、金だけ、自分だけのために原発の再稼働を進めるのは亡国の政策であり、犯罪的です」

語り口はソフトだが、目が怒っている。愛する郷土と国土を守り、国民の生命財産を守ることを最優先に考える保守政治家だからこそ、原発に固執する勢力を許せないようだ。「既にたまっている放射性廃棄物だけでも広島・長崎の原爆数百万発分に相当する量です。中間貯蔵も最終処分もできないまま増えてきた。今や原発は日本最大の危険物です」

 そして10年前を振り返り、申し訳なさそうに言葉を絞り出した。「もうチェルノブイリのような巨大な石棺を造って建屋全体を覆うしかない。私たちは福島で手のつけられない地獄を見ました。私が一生懸命に取り組んできた原発推進はまったく間違いで極めて責任が重い。心から深く反省し、おわびしなければならないと考えています」

中川氏といえば、森喜朗内閣の官房長官だった2000年、愛人問題や右翼団体幹部との会食問題が週刊誌で報道され、就任3カ月で長官を辞任した時には連日連夜、動静に注目が集まった。一方の政策面では自民党「商工族」の有力者であり、原発を推進してきた責任者でもあった。

1996年1月に橋本龍太郎内閣の科学技術庁長官として初入閣した際、前月に起きた高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)のナトリウム漏れ火災事故の事態収拾に奔走。就任の直前、火災を撮影したビデオが核心部分をカットして公開されており、原発業界の隠蔽(いんぺい)体質が大きな問題となっていた。「当時の私は、説明責任を果たすことで合意形成を図ろうと腐心していた。原子力の平和利用が日本には必要との立場でした」

国の原子力委員会の委員長でもあった中川氏は、「原子力政策円卓会議」を11回開催。学識経験者や立地自治体の首長、原発反対グループの代表らが同席して意見を述べ合う場を設けた。地元住民を対象に「大臣と原子力を語る会」も開いた。だが中川氏、脱原発を求める市民の声を聞き入れて方針転換することはなかった。その後、自民党の政策責任者である政調会長、党を仕切る幹事長まで務めた。同じ派閥(清和会)出身の小泉純一郎内閣時代には3年にわたって国対委員長として政権を支えたが、原発推進の立場を変えることはなかった。

党の実力者だった中川氏が68歳で永田町を去ったのは12年末のこと。小泉元首相の政界引退(09年)、東日本大震災を経て行われた12年12月の衆院選に出馬しなかったのだ。当時、毎日新聞の取材にこう述べている。「若いころ、派閥争いはあったが、政治家が競いながら全体を動かす熱気があった。政治の力が少し弱っていないか。引退後も改革推進のため自由な政治活動は続ける」。中川氏の言う政治活動を巡ってはさまざまな臆測を呼んだが、小泉氏が「原発ゼロ」をぶち上げたのと同時期に中川氏の決意が固まっていたことは先述した通りである。

17年、中川氏は「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」の副会長に就任。城南信用金庫相談役の吉原毅氏が会長で、小泉氏や細川護熙元首相が顧問を務める全国組織である。18年1月には全原発の即時停止を求める「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」の骨子案を取りまとめて発表。その内容は今、立憲民主党など野党3党の「原発ゼロ基本法案」に反映される形で国会に提出されている。

震災10年を控えた今年2月、中川氏は小泉氏らと共にオンライン記者会見に臨んだ。会場で私はこう質問した。あの事故から10年にあたる今年、秋までに実施される衆院選では、原発にイエスかノーかを争点にして民意を問うべきではありませんか?

中川氏は即答した。「候補者は『原発を推進します』とは言わず、『原発に頼らない地域社会を』というような、ふわっとした言い方をする。そういうあいまいさを許さない世論になれば、一人一人の候補者が自分の問題として原発を考えるようになる。それが政党を変え、公約を変え、選挙を変えていくのではないか」。脱原発を実現するには、レストランのメニューから選ぶように、単にリストの中から政党を選んで投票するのでは足りない。きっちりしたメニューを政党に提示させるための世論を形成していく必要がある、という意味なのだろう。

そうか、「自由な政治活動」とは党の政策に縛られず、自らの信念に基づいて政治に働きかける国民運動を起こすことだったのか。それなら納得がいく。

過ち償い再生エネ100%に

「原発ゼロ・自然エネルギー100世界会議~福島原発事故から10年~」で握手する(左から)鳩山由紀夫元首相、小泉純一郎元首相、菅直人元首相=2021年3月11日、幾島健太郎撮影拡大
「原発ゼロ・自然エネルギー100世界会議~福島原発事故から10年~」で握手する(左から)鳩山由紀夫元首相、小泉純一郎元首相、菅直人元首相=2021年3月11日、幾島健太郎撮影

福島の事故から10年となる今年3月11日、「元首相5名による3・11宣言」が発表された。細川、小泉、村山富市、鳩山由紀夫、菅直人の元首相5人による、脱原発を求めるメッセージだった。存命中の元首相は自民党出身または保守系が大半を占め、海部俊樹氏から安倍氏まで11人いる。うち5人が“原発卒業”の意思を明確にしたことになる。

小泉氏は「与党も野党もない。右でも左でもない。国民の生命を危機にさらし、経済的にも破綻し、解決不可能な核廃棄物問題を抱える原発はなくすしかない」と繰り返し訴えている。同様に考えを改め、二人三脚で活動する中川氏は「まあ、いい方に変わったんだから許してください」という小泉氏の言葉を紹介して理解を求めている。

「自民党が政権奪還した12年の選挙は、出馬すれば小選挙区で勝てるのは見えていた。しかし私は世代交代したかった。そして今、原発を推進してきた政治家として、償いの意味でも、原発ゼロに向けて努力するのが責任の取り方だと考えています」

原発は大事故が起きると、賠償金が天文学的な数字になるため、損害保険会社も保険を引き受けない。民間企業である電力会社は事故の責任を負いきれない。財政政策で経済成長を重視する「上げ潮派」と見られてきた中川氏は、力を込めてポジティブな見通しを語った。

「再生可能エネルギー100%になれば、化石燃料を輸入する年間25兆円が不要になり、国富は海外に流出しない。温室効果ガスも出なくなるし、設備投資や地域産業の活性化で日本経済は大発展する。2050年には実現可能です。そのための民意をつくる努力を、私は続けていきます」【奥村隆】


■人物略歴

中川秀直(なかがわ・ひでなお)さん

1944年、東京都生まれ。慶応義塾大卒業後、日本経済新聞記者を経て76年に衆院旧広島2区から新自由クラブで初当選。96年、橋本龍太郎内閣で科学技術庁長官。2000年、森喜朗内閣で官房長官。自民党では02年から国対委員長、05年に政調会長、06年に幹事長。07年、森会長退任で清和会の代表世話人に。12年の衆院選に出馬せず政界引退。当選10回。

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