安倍晋三首相の首相としての通算在任日数が今月19日、第1次政権を含めて2886日となり、桂太郎元首相と並び歴代トップとなる。衆参両院の選挙戦を勝ち続けて安定基盤を築いた安倍首相は8年近く政権を運営してきた。「最長政権」は何をもたらし、何を残したのか。長期政権の功罪について、3人の識者に話を聞いた。
戦前日本の歴史を学べ 藤井裕久・元財務相
長期政権のメリットは長期的な視点で物事を考えられること、そして、一つのテーマに時間をかけて取り組めることだ。その利点を最もいかせるのが外交で、戦後の長期政権は日本の平和のために大きな役割を果たしてきた。吉田茂元首相はサンフランシスコ講和条約を結び、佐藤栄作元首相は非核三原則を表明し、沖縄返還を実現した。現状を冷静に分析し、一貫した姿勢で取り組んだことが政権の実績となってきた。
では、安倍晋三首相はどうか。世界中を回っているが、それが実っているとは言いがたい。トランプ米大統領とは仲良くしているが、大統領の本音は「自国さえ良ければいい」だ。迎合すればするほど、日本は他国から反感を持たれる。ロシアとの北方領土問題解決のめどもまったく立っていない。対中国では、北東アジアの平和と安定につながる中身のある関係は築けていない。腰を据えて取り組んでいないので、結果を出せるわけがない。
内政も似たような状況だ。首相は「全世代型社会保障」を掲げるが、国民の希望や不安に誠実に向き合うなら、「老後30年で2000万円不足する」と指摘した金融庁の報告書を受け取るべきだ。「改革を進める」という言葉は「口だけ」と言わざるを得ない。
目立った実績がなく、世間に「飽き」が広がるのに政権が安定するのは、強力な「ポスト安倍」がいないからだ。今の政治家は少したたかれただけで簡単に屈してしまう。私が仕えた自民党の二階堂進元官房長官は戦時中、日本が緒戦で勝利を続ける中で「米国みたいな金持ちと戦争するのはばかだ」と、大政翼賛会の推薦を受けずに選挙で訴え、落選した。昔は彼のように自らの信念に基づき、断固戦う政治家がたくさんいた。最近は「妥協こそが政治の要諦だ」と錯覚している政治家が多すぎる。
長期政権の弊害も目立っている。首相官邸が人事権を振りかざして恐怖心を植え付けた結果、政権の意向に反発する役人がいなくなってしまった。長いものに巻かれ、「空気」で動く人ばかりになってしまった。
今の日本は表向きは平和だ。だが、来年夏の東京五輪・パラリンピックを控えた盛り上がりを見ていると、国中がベルリン五輪やプロ野球、大相撲に熱狂した昭和10年代とそっくりだと感じてしまう。裏では国家総動員法が成立し、日米通商航海条約を破棄され、石油供給も断たれた。地獄に向かって突き進んでいたのに、当時の日本人は気づかなかった。同じことが起きない保証はない。
首相の本音は「歴代最長の桂太郎(元首相)を抜けば、それでもう十分」なのではないか。自民党総裁の連続4選はほぼないだろう。しかし首相が続投してもしなくても、今のような政治が続く限り日本は国際協調主義からどんどん離れていき、再び世界の孤児になるリスクは高まる。
戦時中に飢えと米軍による爆撃の恐怖を嫌というほど味わった者として、史上最長の在任期間となった首相にこれだけは言いたい。戦前の日本を、歴史を学んでください。【聞き手・青木純】
国民・現場の声、届いているか 石原信雄・元官房副長官
かつて私は内閣官房副長官として竹下登氏から村山富市氏までの7人の首相に仕えた。それぞれ個性は違ったが、安倍晋三首相はどの首相ともタイプは違う。安倍首相は、あまり自分のカラーを押し出そうとせず、党や事務方の声も聴きながら、いろいろな分野の意見をバランスよく取り入れようとしてきた印象だ。それも長期政権の要因ではないかと考える。
内閣が安定する一つの要素は、官房長官に「人を得る」ことだ。首相は対外的な活動が多いので、官僚組織と内閣を接点で束ねる官房長官は重要だ。それを支える事務方トップの官房副長官も大事だ。第2次安倍内閣以降、ずっと支えてきた杉田和博官房副長官の存在は大きい。副長官の役割は、時の政権の窓口として各省庁が言いにくいことを官房長官に伝えること。杉田氏は菅義偉官房長官にも駄目なものは駄目としっかり伝えていると思う。首相と官房長官からの信頼はもちろん、それに加えて各省庁からの信頼がないと務まらない重要なポストだ。
安倍政権が設置した内閣人事局は、政と官の関係性を大きく変えてしまった。各省庁の幹部人事を官邸が実質的に把握している現状は、私が官邸にいた頃とは大きく違う。当時は人事権を各省庁が持ち、官邸は報告を受けるだけだったが、現在は官邸が決める。人事の仕組みでは、政が官に対して圧倒的に強くならざるを得ない状況だ。
国会が指名した首相が人事権を握ることは、民主主義の理念に照らせばよいことだ。ただ、官僚が官邸の嫌がることを言わなくなってしまわないか心配だ。官僚組織は、国会が決めた法律と内閣が決めた政令を実行する一方で、国民のニーズを直接把握している。社会保障や経済産業、教育などあらゆる分野で、実務を通じて国民と接しているからだ。官僚は課長、局長、次官とさまざまな役職を経ながら国民ニーズの変化を感じるが、長期政権で官邸スタッフが固定されるとギャップが生じる恐れがある。政権が歓迎しない意見を官僚は上げにくくなり、官僚がそんたくしたら国民のニーズが政治に反映され難くなる。
政府が設置する有識者会議でも、「民の声」を反映させる心掛けが必要だ。政権好みの識者のみを選べば、民の声とは言えない。批判的な識者も起用する雅量が問われている。
第2次安倍内閣発足前、当時の旧民主党政権が国民の信任を得られなかったことも、今の長期安定政権が続く要因の一つになっていると思う。国民が「自民党でなければ駄目だ」という感覚を持ったことは否めない。以前は国民の不満を代弁する野党勢力がある程度強かった。今は野党が弱体化し、国民の声を野党が代弁する機能を十分果たせていない状況になっていることも問題だ。
各省庁や現場の国民の声が、政権中枢に忠実に反映されるようになってほしい。長期政権の間にも、経済・社会は動いている。変化する行政のニーズをどう把握するかが政権の課題で、そのための努力を怠ってはいけない。【聞き手・堀和彦】
安定基盤を何に費やしたか 宮城大蔵・上智大教授
第2次安倍晋三政権の最大の功績は、政治に安定をもたらしたことだろう。旧民主党政権のみならず、小泉純一郎政権のあとの第1次安倍政権を含めて1年刻みの首相交代が繰り返され、国政は停滞した。現政権の支持率が底堅い背景には、政治に安定を求める国民の意識がある。
民主党が分裂して弱体化したことに加え、安倍氏にとって2度目の政権であることも大きい。第1次政権崩壊後に味わった惨めな体験が身に染みている。権力への執着は「政権投げ出し」も多かった近年の首相の中で抜きんでている。
問題はその安定した政権基盤を用いて、日本が直面する課題に正面から取り組んだといえるかだ。アベノミクスの「三本の矢」を皮切りに、「地方創生」や「一億総活躍」など、数々のキャッチフレーズは打ち出されたが、これだけの長期政権に見合った業績があるかといえば心もとない。
日本のこれからを考えるには、「持ち時間」という観点が重要になるだろう。たとえば「2022年問題」だ。22年以降に団塊の世代が後期高齢者に達して社会保障費が急増する。一方で、新卒人口は一気に縮小して人手不足が顕在化してくる。
財政難の中、高度成長期に整備されたインフラの老朽化も深刻になってくる。日本列島は地震活動期に入っており、大震災の発生も現実の危機と言える。日本にとって「国家存立の危機」は、対外関係よりも足元にあると言うべきだろう。安定した政権基盤と既に7年に及ぶ「持ち時間」を一体何に費やしたのか。それが後年に安倍政権を評価する際のポイントになるだろう。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えた。その最たるものは憲法改正だろう。だが、任期中に改憲が実現に至らなかった場合はどうなるだろうか。ただでさえ国民の関心が高いとは言えない状況にある中、改憲を旗印に掲げる政権がこの先に出てくるだろうか。
第2次政権発足後の靖国参拝は米政府からも批判を招き、首相参拝は途絶えた。これだけハードルが上がると今後の首相にとっても参拝は難しいのではないか。戦後外交における難題の一つである北方領土問題について、安倍首相は「3島」や「面積分割」などを放棄し、事実上2島返還に要求を切り下げたものの妥結の見通しはたたない。改憲、靖国、北方領土と、いずれの問題でも、安倍首相の本来の思いとは逆の形で戦後政治の争点に終止符が打たれる可能性がある。
自民党にとっては安倍首相のあとが大変だろう。安倍首相は明確な後継者を設けないことで自らの政権を長期化したともいえる。本来であれば、小泉元首相が安倍氏を後継者に据えたような形が自民党政権の安定的存続・継承には好ましいはずだ。
「ポスト安倍」を担う政治家は、安倍首相と異なる形で求心力を作る必要に迫られる。「1強」政権下の強行で行き詰まった沖縄・辺野古への米軍基地移設問題の打開などが、政治的手腕をアピールする機会になりうるのではないか。【聞き手・鈴木英生】
政治的遺産乏しい?
安倍晋三首相は2006年9月から第1次内閣で計366日間在任。12年12月に首相に返り咲き、今年6月に伊藤博文元首相(2720日)、8月には佐藤栄作元首相(2798日)を抜いた。ただ、日露戦争勝利を果たした桂氏、沖縄返還を実現した佐藤氏、大日本帝国憲法の起草に当たった伊藤氏に比べ、与野党内から「政治的遺産は乏しい」との声もある。自ら掲げた憲法改正、北方領土問題の解決など課題は積み残されている。
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■人物略歴
藤井裕久(ふじい・ひろひさ)氏
1932年生まれ。大蔵省(現財務省)主計官などを経て77年の参院選で初当選。93年に自民党を離党し、細川・羽田内閣で蔵相、2009年の鳩山内閣で財務相を務めた。
■人物略歴
石原信雄(いしはら・のぶお)氏
1926年生まれ。東京大卒。52年地方自治庁(現総務省)入庁。自治省財政局長、事務次官を経て87~95年に内閣官房副長官。現在は一般財団法人地方自治研究機構会長。
■人物略歴
宮城大蔵(みやぎ・たいぞう)氏
1968年生まれ。一橋大大学院修了。博士(法学)。政策研究大学院大助教授などを経て現職。専門は国際政治史。著書に「海洋国家 日本の戦後史」「現代日本外交史」など。