原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。

原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。

日本の軍隊の伝統には独特な要素があった。例えば、ドイツ軍では
「敵を殺せ」とまず命じられたが、日本軍は殺すこと以上に死ぬことの大切さを説
いた。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性は、19世紀後半の近代化
の初期段階においてすでに顕著に現れている。1872年に発令された海陸軍刑
律は、戦闘において降伏、逃亡する者を死刑に処すると定めた。もちろん良
心的兵役拒否などは問題外であった。軍規律や上官の命令に背くものは、そ
の場で射殺することが許されていた。さらに、江戸時代の「罪五代におよび
罰五族にわる(ママ)」という、罪人と血縁・婚姻関係にある者すべてを処
罰する原則と同様に、一兵士の軍規違反は、その兵士のみならず、彼の家族
や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていた。個人の責任を血族全体に科
し、兵士個人に社会的な圧力をかけることで、結果的に規律を厳守させてい
たのである。この制度によって、兵士の親の反対を押さえつけ、兵士による
逸脱行為はもちろんのこと、いかなる規律違反も未然に防止できたのである。
さらに、警察国家化が急激に進むにつれて、1940年代までに、国家の政策に
批判的な著名な知識人や指導者が次々と検挙・投獄され、国家に反する意見
を公にすることは極めて困難になった。

(大貫美恵子『学徒兵の精神誌』岩波書店、pp.7-8)

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「原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。公式にはアメりカ兵の被害を少な
くするためとされている。しかし、それはウソだ。当時の日本に連合艦隊はなく、
兵器を作る工場もない。米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もして
いた」

投下の主な理由は二つあるという。「一つは、原爆開発の膨大な予算を出した
議会に対し、原爆の効果を示したかったから。つまりカネのためなんだ。そして
2個の原爆は種類が異なっていた。二つとも落として科学的に確かめようという
のが第2の理由。人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ」。

このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と鶴見さんは問う。「ア
メリカという国家がなくなるまででしょう」。

いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、
という。「日本はそのことにいまだに気づかず、世界一の金持国である米国の懐
に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ」。

(『戦後60年を生きる 鶴見俊輔の心』朝日新聞刊 2005年11月25日号 p.21)

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「日本」
何と言う不思議な国であろう。
歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。
国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、
外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外
国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られな
い。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通
用する社会であった。

(司馬遼太郎『菜の花の沖<六>』より引用)

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「天皇のために戦争に征ったという人もいるが、それは言葉のはずみであっ
て関係ないですね。それより、戦争を忌避したり、もし不始末でもしでかした
ら、戸籍簿に赤線が引かれると教えられたので、そのほうが心配でしたね。自
分の責任で、家族の者が非国民と呼ばれ、いわゆる村八分にあってはいけんと、
まず家族のことを考えました」

(戦艦『大和』の乗員表専之助氏の述懐)

(辺見じゅん『男たちの大和<下>』ハルキ文庫、p.276)

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兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊
の特徴であった。圧倒的勝利に終った日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦
死、戦傷死者はわずか1417名に過ぎないのに、病死者はその10倍近くの11894
名に達している。・・・これは軍陣衛生にたいする配慮が不足し、兵士に苛
酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。

日清戦争では悪疫疾病に兵士を乾したが、日露戦争の場合は兵士を肉弾と
して戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼る
ばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。・・・
旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、
莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。・・・

日露戦争後の日本軍は、科学技術の進歩、兵器の発達による殺傷威力の増
大にもかかわらず、白兵突撃万能主義を堅持し、精神力こそ勝利の最大要素
だと主張しつづけた。その点では第一次世界大戦の教訓も学ばなかった。兵
士の生命の軽視を土台にした白兵突撃と精神主義の強調が、アジア太平洋戦
争における大きな犠牲につながるのである。

兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが、補給の無視であった。兵
士の健康と生命を維持するために欠かせないのが、兵粘線の確保であり、補
給、輸送の維持である。ところが精神主義を強調する日本軍には、補給、輸
送についての配慮が乏しかった。「武士は食わねど高楊子」とか、「糧を敵
に借る」という言葉が常用されたが、それは補給、輸送を無視して作戦を強
行することになるのである。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.10-11)

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自発性を持たない兵士を、近代的な散開戦術の中で戦闘に駆り立てるため
には、命令にたいする絶対服従を強制する以外にはなかった。世界各国の軍
隊に比べても、とくにきびしい規律と教育によって、絶対服従が習性になる
まで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしたのである。そのためには、
平時から兵営内で、厳しい規律と苛酷な懲罰によって兵士に絶対服従を強制
した。それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従す
る習慣をつけさせるまで行なわれた。兵営内の内務班生活での非合理な習
や私的制裁もそのためであった。「真空地帯」と呼ばれるような軍隊内での
兵士の地位も、こうした絶対服従の強制のあらわれであった。このような兵
士の人格の完全な無視が、日本軍隊の特色の一つである。すなわち厳しい規
律と苛酷な懲罰によって、どんな命令にたいしても絶対に服従することを強
制したのである。

(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.4-5)

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ロンドン軍縮条約締結(1930年、昭和5年4月22日)
(首相:浜口雄幸、外相:幣原喜重郎)

軍閥と結託した政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)は、この軍縮
条約締結を「統帥権干犯」だと非難し、民政党内閣を葬ろうと
した。・・・それは結論的にいえば政党政治を自己否定し、そ
の責任内閣制から独立した聖域に軍部=統帥権をおくものだった。

さらにロンドン軍縮条約締結前後のゴタゴタで海軍の良識派
だった山梨勝之進や掘悌吉らがいなくなり、強硬派のアホども
(加藤寛治、末次信正ら)が主流となり、対米強行路線へと動
き出した。

<「統帥権干犯」=”魔法の杖”(司馬遼太郎)>

軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相であろう
と誰であろうと他の者は一切口だし出来ない、口だしすれば干
犯になる。

(半藤一利『昭和史 1926->1945』平凡社 p46)

鳩山一郎の大ボケ演説(昭和5年4月25日、衆議院演説)

政府が軍令部長の意見を無視し、杏軍令部長の
意見に友して国防計画を決定したという其政治上
の責任に付て疑を質したいと思うのであります。
軍令部長の意見を無視したと言いますのは、回訓
案を決定する閣議開催の前に当って、軍令部長を
呼んで之に同意を求めたと云う其事実から云うの
であリます。・・・陸海軍統帥の大権は天皇の惟
幄に依って行われて、それには(海軍の)軍令部
長或は(陸軍の)参謀総長が参画をLて、国家の
統治の大権は天皇の政務に依って行われて、而し
てそれには内閣が輔弼の責任に任ずる。即ち一般
の政務之に対する統治の大権に付ては内閣が責任
を持ちますけれども、軍の統制に閑しての輔弼機
関は内閣ではなくて軍令部長又は参謀総長が直接
の輔弼の機関であると云うことは、今日では異論
がない。……然らば、政府が軍令部長の意見に反
し、或は之を無視して国防計画に変更を加えたと
いうことは、洵に大胆な措置と言わなくてはなら
ない。国防計画を立てると云うことは、軍令部長
又は参謀総長と云う直接の輔弼の機関が茲にある
のである。其統帥権の作用に付て直接の機関が茲
にあるに拘らず、其意見を蹂躙して輔弼の責任の
無いーー輔弼の機関でないものが飛び出して来て、
之を変更したと云うことは、全く乱暴であると言
わなくてはならぬ。・・・

(松本健一『評伝 斎藤隆夫』 p238)

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「戦争被害受忍論」(最高裁判所 昭和62年6月26日 第二小法廷判決)

戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民の
ひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)であって、これに
対する補償は憲法の全く予想しないところというべきである。

(奥田博子『原爆の記憶』、慶應義塾大学出版会、p.73)

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保守ナショナリストの間にも、対米従属状態への不満がないわけではない。し
かし彼らの多くは、日米安保体制への抗議を回避し、「アメリカ人」や「白人」
への反感という代償行為に流れてしまっている。彼らのもう一つの代償行為は、
改憲や自衛隊増強の主張、そして歴史問題や靖国神社、国旗・国歌といったシン
ボルの政治だが、これもアジア諸地域の反発を招き、さらに対米従属を引きおこ
す結果となる。・・・アジア諸国の対日賠償要求をアメリカの政治力に頼って回
避した時点から、日本の対米従属状態は決定的となったのである。

さらに保守勢力の代償行為は、対米関係をも悪化させる。アメリカの世論には、
日本の軍事大国化を懸念する声が強い。・・・さらに複雑なのは、対米軍事協力
法案であるガイドライン関連法は、自衛隊幹部すら「要するに我々を米軍の荷物
運びや基地警備など、使役に出す法律」だと認めているにもかかわらず、「日本
の軍事大国化の徴候」として報道する米メディアが少なくなかったことである。
そのため、第九条の改正はアメリカ政府の意向に沿っているにもかかわらず、米
欧のメディア関係者の間では、「第九条を変えるとなれば、米欧メディアの激し
い反応は確実」という観測が存在する。

すなわち、対米従属への不満から改憲や自衛隊増強、あるいは歴史問題などに
代償行為を求めれば求めるほど、アジア諸国から反発を買い、欧米の世論を刺激
し、アメリカ政府への従属をいっそう深めるという悪循環が発生する。この悪循
環を打破するには、アメリカ政府への従属状態から逃れてもアジアで独自行動が
可能であるように、アジア諸地域との信頼関係を醸成してゆくしかない。その場
合、第九条と対アジア戦後補償は、信頼醸成の有力な方法となるだろう。

(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、p.820)

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この新たな帝国主義の国家資本主義形態が目新しいのは、経済的余剰を吸い上
げるのが国家自体だということだ。今日のドル本位制を通じて国際収支による搾
取を推進するのは中央銀行であって、民間企業ではない。この金融的基軸通貨帝
国主義を真の超帝国主義に変えるのは、すべての国ではなく一国だけに与えられ
た赤字垂れ流しの特権である。信用創造の中心国の中央銀行(と、その外交官が
支配する国際的通貨機関)のみが、他の衛星国の資産や輸出品を買い取るための
信用を創造できるのだ。

一方、この型の帝国主義は、資本主義に特有なものではない。ソビエト・ロシ
アは、仲間の COMECON 諸国を搾取するために、貿易、投資、金融のル-ルをつ
かさどる機関に支配権を行使していた。ルーブルの非交換性という条件のもとに
、貿易の価格決定および支払システムを支配することで、ロシアは、アメリカが
非交換性のドルを発行して仲間の資本主義国を搾取したのと同じく、中央ヨーロ
ッパの経済的余剰を自分の懐に入れていた。ロシアが自国にきわめて都合のいい
やり方で衛星国との貿易条件を決めていたのも、アメリカが第三世界に対して行
っていたのと同じだった。ちがうのは、ロシアが燃料や原料を、アメリカが穀物
やハイテク製品を輸出していたことぐらいである。戦術の集合として理論的に見
れば、国家資本主義的帝国主義と官僚社会主義的なそれとは、政府間的な手段に
頼るという点で互いに似通っている。アメリカと同じくソビエト・ロシアも自ら
の同盟国をカで威圧したのである。

ヤコブ・ブルクハルトは一世紀前にこう述べた。

「国家は、政治や戦争、その他の大義、そして”進歩”のために負債を背負い込む
・・・未来がその関係を永遠に尊んでくれると仮定するわけだ。商人や会社経営
者から信用をいかにして食い物にするかを学んだ国家は、破綻に追いやれるもの
ならやってみろと国民に挑戦する。あらゆるペテン師と並んで、国家は今やペテ
ン師の最たるものとなっている」。

(マイケル・ハドソン『超帝国主義国家アメリカの内幕』広津倫子訳、pp59-60)

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日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツより
もアメリカやオーストラリアなどでした。日露戦後の対日感情の悪化と日
本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されま
す。早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会
での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金と
ストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。また、地理的に
近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、
日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋の黄色人種」への不信が表
明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。さらに、
ニュージーランド、南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入
国が制限されることになっていきました。

こうして黄禍論という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策
に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。太平洋戦争は、「鬼畜」
や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら
戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見
による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。

しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族と
も距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。なぜなら、日
露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立とい
う構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定す
るためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線を
とらざるをえないというディレンマに陥ったからです。そして、欧米との
同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公
敵」とみなされていきました。

しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が
避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟
主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦
争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。

(山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)

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そのうち、私たちは空地を出て、歩き始めました。誰かが歩き出した
ら、みんなゾロゾロと歩き出しただけで、誰も行先があるわけではあり
ません。亀戸天神に近づく頃、避難民の群は大きく膨れ上って、私たち
は、道幅一杯の長い行列になってノロノロと流れて行きました。みんな
黙っています。しかし、時々、行列の中から、見失った家族の名前を呼
ぶ叫びが聞こえます。私たちも、思い出したように、妹や弟の名前を呼
びました。けれども、あの空地にいた時、柳島尋常小学校の子供たちは
みんな焼け死んだ、と誰かが言っていましたので、もう諦めていました。
感情が鈍くなっていたというのでしょうか、悲しみを鋭く感じるのでな
く、自分というものの全体が悲しみであるような気分でした。家族の名
前を呼ぶ声が途絶えると、行列の中から、時々、ウォーという大きな坤
き声のようなものが起ります。それを聞くと、私の身体の奥の方から、
思わず、ウォーという坤き声が出てしまいます。その夜は、東武鉄道の
線路の枕木に坐って、燃え続ける東京の真赤な空をボンヤリと眺めてい
ました。

(清水幾太郎ら『手記・関東大震災』1975より)

(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、p.4)

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例えば警察は、東京下町の住民を本所被服廠跡の一方所に誘導し
たため、集まった4万の群衆の衣服に火が移り、3万8000人が焼死し
た。東京市内の死者は6万といわれているので、その6割をこえる人
々は警察の強権的な誘導によって死んだことになる。

また、「朝鮮人来襲」の流言を拡げたのも警察であった。震災の
翌日、9月2日、政府は米騒動のときでさえとらなかった戒厳令(こ
の場合は行政戒厳)を施行し、五万の軍隊で「朝鮮人来襲」にそな
えた。警察の呼びかけによって、青年団、在郷軍人、消防隊などを
軸として自警団が組織され、彼らは各地でーーただし火災被害の少
ない地域でーー朝鮮人を惨殺していった。殺された朝鮮人は、政府
の発表では231人とされているが、実数は10倍を越えるといわれて
いる。ほかにも、多くの中国人が殺された。このような官民一体の
大量虐殺の情勢のなかで、多くの社会主義者や無政府主義者が殺害
されていった。大杉栄、伊藤野枝らも東京憲兵隊の甘粕正彦大尉に
「国家の害毒」として殺されたのである。しかも、官憲と自警団に
よる犯罪は詳しく調べられることはなく、責任を問われることもほ
とんどなかった。

(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.2-3)

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さらに学生たちは、「東京羅災者情報局」を作った。今でいう、情
報ネットワーク作りである。彼らは東京市と協力し、全市にわたる避
難者名簿を精力的に作成し、尋ね人探しを容易にした。全市および隣
接町村に散っているすべての傷病者収容所を訪ね、その氏名、住所リ
ストを作った。区役所と警察を歩き、死亡者名簿を作成した。また、
歩いて調べた正確な焼失区域地図を作って、新聞を通して公表したの
である。9月2日には戒厳令が布かれ、地方の人が東京に入ることは難
しく、親族の安否を尋ねることもできなかった。学生の作ったデータ
は、人々の不安をやわらげたのだった。

末弘教授は、「平素動(やや)ともすれば世の中の老人達から、私
事と享楽とにのみ没頭せるものゝ如くに罵られ勝ちであった現代の学
生が、今回の不幸を機として一致協力文字通り。寝食をすら忘れて公
共の為めに活動努力し、以て相当の成績を挙げることが出来たことは、
平素学生の「弁護人」たる私としては此上もない嬉しいことである」
と書いている。阪神間の大学教授で末弘教授と同じ思いを今回持った
人もいるであろう。

72年前の権威的な社会でのこと、民衆の自立の力は弱く、学生の救
援活動はきわめてエリート的である。それにしても、避難民の自治を
促し、警察やマスコミが今日やっている情報センターとしての機能を
はたしていったことに、私は感心する。学生たちの救護活動から、3
カ月後に東京帝大セツルメント(会長は末弘厳太郎)が作られ、2年
後の東京本所における活動に発展していく。

私たちはこんなボランティアの歴史があったことをすっかり忘れて
いる。昭和の全体主義があり、戦争があり、敗戦から経済復興、そし
て富裕な80年代社会へ移りゆく間に、新しい出来事の記憶は、それ以
前の人々の反応の記憶をかき消してしまったのである。

(野田正彰氏著『災害救援』岩波新書、pp.72-73)

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会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で両総長に対し、米国の
回答が満足であるとか不満足であるとか云ふのは事の末であつて根本は大元帥陛
下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対し斯く斯くの方法で
勝利を得ると云ふ案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に
今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用ふれば決して負けはせぬと
述べたが、流石に両総長も之れには一語を発しないので、次長は自分に対し外務
大臣はどう考へられますと聞いて来たので、自分は勝つことさえ確かなら何人も
「ポツダム」宣言の如きものを受諾しようとは思はぬ筈だ、唯勝ち得るかどうか
が問題だと云つて皆を残して外務省に赴いた。そこに集つて居た各公館からの電
報及放送記録など見て益々切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車
中で二千万の日本人を殺した所が総て機械や砲火の餉食とするに過ぎない、頑張
り甲斐があるなら何んな苦難も忍ぶに差支へないが竹槍や拿弓では仕方がない、
軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、最早一日も遷延を許さぬ所迄来
たから明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。

(昭和20年8月13日、最高戦争指導会議でのできごとを東郷茂徳が日記に残してお
り、上記引用は保阪正康『<敗戦>と日本人』ちくま文庫、p.242-243)

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五・四運動は外国勢カを標的にしたばかりでなく、外国と結びつく
中国人すべてをも標的にした。これは中国革命における新しい要素で
あり、商工業者や秘密結社を不安にした。租界内あるいはその周辺の
邸宅で、安全かつ快適に暮らしている上海の資本家の立場からは、革
命は邪道に入ってゆくように見え、彼らの生活と中国経済に対する支
配力を脅かすように見えた。

北京における学生運動の指導者の一人は穏健な知識分子で、名前は
陳独秀(チエントウシウ)、北京大学文学院の院長〔文学部長〕で、
そこの図書館では毛沢東が働いていた。陳は北京大学にいた二年間で
中国の先進的知識分子のリーダーとなり、雑誌『毎週評論』を舞台に、
革命的左翼の新思想を広めた。この雑誌は可能な限り多くの読者を獲
得するために、日常的な口語文で書かれていた。五・四運動が北京で
勃発したとき、彼は衰世凱を弾劾するパンフレットを発行し、そのた
め三カ月間の投獄と拷問を味わった。釈放後、彼は大学の職を辞して
上海に移った。そして1919年秋には、そこで若い無政府主義者、社会
主義者、マルクス主義者たちの中心にいた。・・・

上海における、陳独秀と彼の無害かつ動揺しがちな知識分子のグル
ープは、レーニンおよびマルクスの教義は現下の中国の情勢に適合す
るものであり、それを実践するためには、中国に共産党を創立しなけ
ればならないと決定した。共産主義インターナショナルの代表、グレ
ゴリー・ヴォイチンスキーが討論に加わったことが、彼らがこの結論
に到達するのにあずかって力があったのは明らかである。

陳独秀の大学在職時代の同僚や学生たちの援助で、中国各地にマル
クス・レーニン主義の研究グループが組織された。湖南省の省都、
長沙でこの組織にあたったのが、若き日の毛沢東であった。

(S. シーグレーブ『宋王朝』田畑光永訳、サイマル出版会、pp.213-214)

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このころ浜口雄幸内閣の金解禁政策(昭和5年1月11日)が裏目に出
て、日本は経済不況のどん底にあった(—>満州開発が切望されていた)。

・為替相場の乱高下—>その操作と悪用。
円レートが実勢より高く設定されており輸出不振

・緊縮財政に伴うデフレ経済の推進(円レート維持)

・求人数激減(資本家と労働者の対立、労働争議)

●金解禁政策とは金を自由に輸出することができる金輸出解禁
政策で、金本位制復帰のための措置。世界恐慌は金本位制に
よって発生し伝播したという結論がでている。

(高橋洋一『恐慌は日本の大チャンス』講談社、p.151)

<金本位制度(金輸出を認める(=金解禁)制度)について>

金本位制は、その国の紙幣通貨を金との互換性によって保証
するものである。それゆえに通貨の信用度はきわめて高いが、
同時に通貨発行量が、国家の保有する金の量によって決められ
てしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、輸出競争力のな
い国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として
国内の通貨供給量がどんどん収縮してゆく。金本位制は、経済
的な体力を必要とする厳しい経済体制である。

昭和5年1月11日の金輸出解禁後、半年もたたないうちに2億円余りの
金が流出した。この額は、解禁のために英米と結んだ借款の額にほぼ
等しいものであった。生糸、綿糸といった主要輸出品の価格が1/3ま
で暴落した。デフレは緊縮を上回って加速し、労働者の解雇、賃下げ
が一般化し、労働争議が頻発した。失業者は300万人に及び、率にして
およそ20%を遥かに越えた。

経済の大混乱、政治の混迷は軍部を活気付かせてしまった。

農村の困窮、米価や繭価の下落、婦女子の身売り、欠食児童増加
(全国20万人)などが社会問題化し、不満が堆積していた。

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夜、芝生や鳥小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰つ
て来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰つて来た、と言います。

私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の
血を洗つていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意
気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました。朝
鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺す
とは夢にも思つていませんでした、、、

軍隊とは、一体、何をするものなのか。何のために存在するのか。

(野田正彰『災害救援』岩波新書、p.5)

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1914年(大正3年):第一次世界大戦勃発(7月28日~1918年11月11日)

●日本の対応(火事場どろぼうに匹適)

1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島と
その付近を攻略(大正3年8月23日~11月7日)。
2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする
協力を十分にしなかった。(—>日英同盟破棄(1921年))
3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。
4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。
5.こうして米英というアングロサクソンの国との緊密な関係がなくな
り、日本が世界から孤立せざるを得なくなった。

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第一次世界大戦、日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を呼ぶ。

国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)

軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」

政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

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石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)

此問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべか
らず、満州も宜く早きにおよんで之れを放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論
なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪
を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。

(『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」)

而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那
人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪を買うあるのみ。其の結果、吾輩の
前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、其の必要に応ぜんが為め
に、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。

(『東洋経済新報』大正3年11月25日号「社説」)

(加藤徹『漢文力』中央公論新社、pp.10-11)

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通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。

■歳入:7億3000万円(大正3年)—–>20億8000万円(大正11年)
第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の
金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)
(–>昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)

第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。農民の
占める割合は50%を切った。

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対華二十一か条要求(1915年、大正4年1月、第二次大隈内閣–>袁世凱)

(「『軍閥抬頭』序曲」(若槻礼次郎))

・孫文の日本への期待が裏切られた。

・中国の排日運動激化の一大転機となった。

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色平
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IROHIRA Tetsuroさん
貴重な資料転送させていただきます(いしがき)

● 現在日本は「違憲の安保法制法(戦争法)」が各地方の裁判官の忖度にあい、「棄却判決」となっています。
日本の自衛隊員は多国籍軍の一員でもなく。米軍指揮下の傭兵として扱われています。
日米軍事合同演習はその為の実践訓練です。
日本の平和憲法は司法権の退廃、民主主義の退廃で、失われつつあります。
2015年国会を埋めた12万人の行動が局地戦阻止のため、再び必要な時となりました。
「上官の命令は天皇の命令(軍人勅諭):今天皇の代わりは米軍司令官となっています」
(戦争は始まってしまったらすぐに止められない:ジャーナリストむのたけじ)
石垣敏夫

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