「こどものための宗教者ネットワーク」第三回フォーラム

妙智会ありがとう基金主催の5月24日から26日まで広島国際会議場で62カ国300名の、国連副事務総長、ユニセフ、ユネスコの代表、子供代表なども加わった、首記会議に参加してきた。今回のテーマは「共に生きる喜びを学ぶー倫理と実践、新たな希望」である。前半は「子どもに対する暴力をなくすための倫理的責任」、「貧困にあえぐ子どもをなくすための倫理的責任」、「地球を守るための倫理的責任」にていての討議、後半は地域ブロックにわかれた討議、そして平和記念資料館見学、平和記念塔へ出向いての献花、祈りの集い、レセプションなど活発、盛大なものであった。

環境部会に参加して発言させてもらった。前の晩ホテルについてそこの中華料理店で五目麺を頼み、出されたのも見て、餓死する子どもを想って涙がとめどなく流れ、「自分は差別している」と思った。「共にある」と言いながら実際には差別しているのだと。この話をして、「もったいない」、「ありがとう」はごぞんじだろうが、他に「いただきます」、「あきらめる」という日本語を憶えてほしいと言った。「頂きます」は尊い命を頭上に捧げて頂くのだ、だから犠牲者の身になって、よく真実を「明らかにして」、それ故に欲を少なくし「諦める」のが「あきらめる」という事だと説明した。

すると司会者は自分の所では何百頭の牛を飼って、殺して喰うのは当たり前と思っていたと言う。彼女は反省したのだろうか、それとも反発したのだろうか?動物は皆動くから自我意識があり、人間は更に言葉、社会から利己的になり、自己中心的な考え、行動をする。これこそボタンの掛け違いの始まりだが常識はこれを当然としている。

平和記念資料館見学の後、「エゴはエコ、エシック(倫理)と両立しない」と言った。個人主義を当たり前とする人達には反発となったか、反省となったかこれも疑問符のままである。エゴが全ての問題の根源にあり、問題の根本的解決はエゴを捨てる事にある。倫理、道徳、平和、博愛などと言い、運動をしても根本を正さなければ自分中心の正義、平和などで解決はついに来ない。そこに宗教、修行が必要なのだが、個人主義を前提とした宗教では解決がない。泡の観点は海の真実によって改められなければ真理も倫理もない。

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