2015年6月7日05時00分
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基地の記憶を残そうとする試みはあった。
《事件を埋もれさせてはならないという気持ちから(略)書いた》
作家の松本清張が著書を手に語るシーンから始まる。小説「黒地の絵」の映画化に向けて、1984年に書かれた脚本だ。故郷・北九州市の市立松本清張記念館に保管されている。
作品は、武装した黒人米兵らが福岡県小倉市(現・北九州市)内の兵舎から集団脱走した50年の事件を描いた。住宅街で略奪や傷害、強姦(ごうかん)。米軍占領下で警察は捜査できず、新聞はまともに報じなかった。
現場の数百メートル先に清張の当時の自宅があった。53年に上京した清張は、事件が知られていないことにショックを受けて取材を開始。58年に小説を発表した。
78年には映画プロダクションを設立。黒澤明や熊井啓らが映画化に意欲を示したが、幻に終わった。その理由を、清張は後に振り返った。「反米的、反戦的である内容とアメリカの人種差別問題を含んでいることなどによると思う」
封切り前日に突然、公開が見送られた映画がある。富士山麓(さんろく)の米軍基地をテーマに東宝が53年に制作した「赤線基地」。監督は谷口千吉。主演は三國連太郎。54年に「ゴジラ」を生む田中友幸がプロデューサーをつとめた意欲作だった。
谷口の手記によると、試写を見た米国人記者らが「反米」と批判。その後、見送りが決まった。《誰を非難し誰に抗議するというものではありません》。約2カ月遅れで公開された作品の冒頭に字幕を入れた。映画研究が専門で、「赤線基地」を調べた立教大教授の中村秀之(59)は「大手が基地を取り上げた映画はほとんどない」と言う。
■50年代本土、「撤去」の渦
50年、9歳の女の子が海水浴中に米軍の機銃弾を受けて死亡(茨城県)。52年、住民4人が米軍機の墜落で死亡(埼玉県)。53年、19歳の女性が米兵に暴行される(新潟県)――。
防衛省によると、52~59年度の米軍人らによる事件・事故の死者数(沖縄を除く)は、583人に上る。
「県民感情からして耐えがたい」「米軍駐留はやむを得ないが、国民等しく負荷すべき義務じゃないか」
53年7月の衆院外務委員会で群馬、神奈川、千葉の各県から知事や町長が参考人として出席し、訴えた。
57年1月には群馬県の演習場で、薬莢(やっきょう)を拾っていた女性を米兵が射殺。米兵の名を冠した「ジラード事件」は、日米のどちらが米兵を裁くかなどをめぐり外交問題になった。反基地運動は全国に広がっていた。
「兵力を減らさないと、反米感情の盛り上がりは避けられない」
一橋大大学院生の山本章子(35)が米国で一昨年見つけた米公文書には、当時の大統領、アイゼンハワーがこの年の5月に、国務長官のダレスに伝えた危機感が記されていた。
1カ月後、アイゼンハワーは首相の岸信介との会談で、日本本土の地上部隊撤退を決める。「親米保守」の岸政権を支える思惑があった。翌年、撤退が実現。米兵が姿を消していき、事件も減った。横文字の看板もなくなっていった。
50年代に本土の基地面積が4分の1に減る一方、沖縄は約2倍に増えた。9対1だった本土と沖縄の基地の面積比は70年代前半に、1対3となり、いまの構図ができあがった。沖縄でも反基地運動が続いたが、流れは変わらなかった。
72年まで米軍占領下で、日本の憲法が適用されなかった沖縄に基地を集中させることで、日米両政府は両国の関係を安定化させた。
■封印した被害「私も怒っていいんだ」
那覇市で先月17日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の辺野古移設阻止を掲げた県民大会があった。登壇者が、普天間返還合意のきっかけになった95年の少女暴行事件にふれた。群衆のなかで、女性(48)は体をこわばらせた。
「忘れるくらいになってほしい。でも、忘れてはいけないとも思う」
84年の秋、下校途中だった。車に乗った米兵に道を聞かれると同時に、後ろから別の米兵に羽交い締めにされ、ナイフを突きつけられた。声一つあげられないまま、3人に乱暴された。
当時、高校2年生。警察に行けば事件を再現させられると聞いていた。家族にも相談できなかった。被害届も出せなかった。原因不明の体の痛みに苦しんだ。過呼吸で倒れた。何度も死のうとした。
95年9月。仕事から深夜に帰宅してテレビをつけ、その場で崩れ落ちた。《米兵3人が12歳の女の子を暴行》。事件のニュースを見て、封印してきた11年前の記憶がよみがえった。部屋の明かりをつけるのも忘れ、暗闇で泣いた。
「こんな幼い子が犠牲になったのは、私があのとき黙っていたからだ」
翌月、突き動かされるようにバスに乗った。事件を糾弾する県民総決起大会の会場を目指した。涙が止まらず、最寄りの停留所で降りられない。たどり着くと大会は終わっていた。帰路につく人波があった。
「多くの人が怒っていた。私も怒っていいんだと思えた」
基地被害を訴える大会や運動に足を運びはじめた。それから20年。01年北谷町、03年金武町、05年本島中部、08年北谷町、12年那覇市……。米兵による性犯罪は後を絶たない。
女性はいま、那覇市で夫と暮らしながら月に1回ほど辺野古に行き、抗議の輪に加わる。「基地から遠くにいる人たちは、近くにいる私たちのことに気づかないのか。気づいても見ないふりをしているのでしょうか」
忘却と、無関心。小さな声が問い続ける。
=敬称略
(木村司、吉浜織恵)
■取材後記
映画「赤線基地」を東京国立近代美術館フィルムセンターで見た。10年ぶりに中国から引き揚げた主人公が「基地の街」の現実と向き合う物語だ。農地を奪われ、悔しさを吐露する老人。基地を拒みたいのに、米兵相手の商売で生きる葛藤を抱えた人たち。基地のそばで暮らす人びとの姿は、取材してきた「沖縄のいま」と重なった。各地の地元紙や市町村史にもあたった。想像を超える米軍の事件・事故があった。沖縄の基地問題は、沖縄だけの問題ではないはずだ。足元の「埋もれた記憶」に目を向けていきたい。
(木村司)
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きむら・つかさ 1977年山梨県生まれ。那覇総局などを経て西部報道センター記者
よしはま・おりえ 75年沖縄県生まれ。大阪社会部などを経て東京社会部記者
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コメント:1952年4月28日(安倍政権で「主権回復の日」制定)は日米安保条約発効で沖縄の米国統治を認めた沖縄の「屈辱の日」、1972年(日本)復帰後も基地はそのままで12歳の少女暴行事件など犯罪や飛行機墜落など事故は止まず、沖縄差別が続行。辺野古などこの差別・屈辱を押し付けるアベノミス、それを認める日本国民(米国民・世界市民)は差別の共犯者であり、安倍と同様「堕落者」である(白人の有色人差別と同様であり、平等・民主主義など言う資格はない)。