毎日新聞 2015年08月15日 東京夕刊
日本が無条件降伏したあの日から70年。日本武道館(東京都千代田区)で営まれた全国戦没者追悼式には多くの遺族たちが参列し、祈りをささげた。戦争は大切な家族を容赦なく奪った。結婚後、出征したまま帰ってこなかった夫、一度も顔を見たことのない父や曽祖父−−。かけがえのない人の面影を思い浮かべながら、平和への思いを新たにした。
◇「平和70年ありがたい」 遺族代表・南方で父戦死、野間征子さん(73)
遺族代表として追悼の辞を読んだ大阪府松原市の野間征子(ゆきこ)さん(73)は、一度も顔を見ないまま亡くなった父の写真を携えて式に臨んだ。終戦時、3歳。戦火の記憶はないが、平和への願いを受け継ごうと壇上に立った。
大阪城(大阪市中央区)近くにあった兵器工場で働いていた父中井武夫さんは1941年7月、妻の正野(まさの)さんを残し、陸軍に召集された。間もなく、正野さんが身ごもっていたことがわかる。翌年1月に生まれたのが野間さん。過去に長女を生後1週間で亡くしていた夫婦にとって待望の子どもだった。
父は出征先で撮った自分の写真の裏に「相変わらず元気で勤務をいたしております。月日のたつのは早いものだ。別れて約3年。征子も大変大きく成ったことと存じます」と書き送ってきたが、戦局が悪化するにつれ便りは途絶えた。ニューギニアで戦病死したという知らせを受け取ったのは終戦翌年の46年11月。死亡の日付は45年2月3日、32歳だった。
母は、働きながら野間さんを育ててくれた。生まれたときから2人きりの生活が当たり前で、「お父ちゃんとお風呂行くねん」と話す友達がうらやましかった。進学や就職で「片親だから」と受験を断られたこともある。
結婚し2人の娘を授かってからも母との同居は続いた。父や戦争の話をすることはなかったが、40代のころ、ニューギニアの戦跡を巡る会に参加しようと相談すると「そんなところ行ったらあかん。生きて帰ってこられへん」と猛反対された。
地元の遺族会で役員を務めるようになった56歳の秋、母を説き伏せ初めて、ニューギニアを訪れた。密林の過酷な道と厳しい暑さを目の当たりにし「父もこの道を通ったのだろうか」と胸が痛んだ。父が亡くなったとされる地域を訪ねる前日、遺族会の職員から「死亡の理由は餓死だった」と知らされた。「こんなに遠いところで無念だっただろう。爆弾で死んだ方がいっそ楽だったのかな」。ショックで食事ものどを通らなかった。帰国して母に現地の写真を見せると「もうええ。見んでええ」と目をそらし、「戦争に行ってほしくなかった。生木を裂かれるようだった」とだけつぶやいた。父の足跡に迫ろうと戦争に関する資料を集め、テレビ番組やDVDを見るが、ニューギニアの場面は直視できない。餓死した父の苦しむ姿を思い浮かべるからだ。
母は2002年、94歳で亡くなった。戦没者遺族の高齢化が進み、年々戦争の記憶の風化が進むように感じる。「70年間平和だったのは本当にありがたいこと。二度と戦争はしてはいけない」。悲しみを知る遺児として、平和の尊さをかみしめた。【田辺佑介】
◇「歴史の話」今は身近に 青少年献花・「武蔵」に曽祖父、御厩帆香さん(17)
「戦争という言葉に正直なところぴんとこない。歴史の話という感じ」という御厩帆香(みまやほのか)さん(17)=北海道立旭川東高校2年=は、祖父に誘われて参列した。
1944年10月、戦艦「武蔵」と共に海に沈み32歳で亡くなった曽祖父のことも戦争のこともほとんど知らなかった。それでも参列することにして、戦争にまつわるテレビ番組に興味を持つようになった。青少年代表の一人として「悲しむ人が二度と出ないよう、戦争について深く考えていくつもりです」との思いを込めて献花した。
曽祖父の軍服姿の写真が残り、毎年墓参りもしてきた。だが、7年前に亡くなった曽祖母からも、祖父母、両親からも「武蔵に乗っていた」という以上は聞いたことはなかった。祖父の北原博さん(78)=旭川市=は「母は女手一つで私ら子供4人を育てた。戦後は食べるので精いっぱいだったし、苦労話も戦争話も家族で話題にならなかった。私自身、父をよく知らない」と明かす。
御厩さんは参列を前に、曽祖母が戦後も保管してきた曽祖父からの手紙を見た。「達筆すぎてほとんど読めなかった」が「大事に思い出をしまって、子育てを頑張ったひいおばあちゃんはすごいと思った」と話した。式典では曽祖父にこう語りかけるつもりだ。
「ひいおじいちゃんには今、ひ孫が14人もいてみんな元気に暮らしているよ」【山田奈緒】