【連載】新聞と9条

 日本は戦後、戦争放棄の憲法9条を柱に平和主義の道を歩んできました。しかし、決して穏やかな道のりではありませんでした。新聞は9条の歩みをどう書いてきたのでしょうか。朝日新聞を中心に敗戦から近年までの報道や論評を連載で振り返ります。

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    (新聞と9条:172)沖縄から:62(01/08)

     復帰後に配備された自衛隊について、沖縄タイムスの軍事記者、國吉永啓(くによしながひろ)(79)は、ある疑問を抱いていた。その規模が、思ったよりも小さかったからだ。 陸上自衛隊だけで数……[続きを読む]

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    (新聞と9条:171)沖縄から:61(01/07)

     東京・赤坂、防衛庁。 1971年の冬が近づくころ、沖縄タイムスの記者、玉城真幸(たまきしんこう)(74)は同庁の広報担当幹部を訪問した。 全国の自衛隊基地のリストを示し、すぐにも取材……[続きを読む]

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    (新聞と9条:170)沖縄から:60(01/06)

     復帰の内実がわかってくるにつれ、沖縄には失望が広がった。ただ、不安と憤りを抱きながらも、多くの人が復帰を受け入れようとしたのも事実だ。新聞社などが行った世論調査の結果にも表れている。……[続きを読む]

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    (新聞と9条:169)沖縄から:59(01/05)

     沖縄が返還されても基地は残す――。 1967年7月、外相、三木武夫と駐日大使ジョンソンとの会談で、日本が示した極秘文書「覚書」には、沖縄の果たすべき「軍事的役割(やくわ)り」と施政権……[続きを読む]

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    (新聞と9条:168)沖縄から:58(01/04)

     18・5%。 沖縄で、アメリカ軍が使う専用の基地・施設のうち、復帰後、2014年までに返還された面積の割合である。 今なお、基地面積は県全体の1割、本島の2割近くを占め、地域社会に計……[続きを読む]

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    (新聞と9条:167)沖縄から:57(12/28)

     カメラマン、石川文洋(77)は、沖縄本島を走っていた。 1972年5月15日、復帰の日。 この時、34歳。「その日」の人々をカメラに収めたかった。 生まれは首里。太平洋戦争のさなか、……[続きを読む]

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    (新聞と9条:166)沖縄から:56(12/25)

     1972年5月15日――復帰の当日、沖縄ではいくつかの労働組合が抗議のストライキを行っていた。 新聞社の労組も例外ではなかった。一線記者たちは取材活動をせずに、代わりに組合に入ってい……[続きを読む]

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    (新聞と9条:165)沖縄から:55(12/24)

     1972年5月15日。 その日、沖縄は雨だった。 27年間に及ぶアメリカ支配は終わった。 統治していた琉球列島米国民政府(USCAR)のトップ、高等弁務官で陸軍軍人でもあるランパート……[続きを読む]

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    (新聞と9条:164)沖縄から:54(12/22)

     記者は取材と報道に徹するべきか、問題によっては民衆とともに闘うべきか――。 1971年9月、那覇市で開催された日本新聞労働組合連合(新聞労連)による新聞研究集会・特別分科会。本土と沖……[続きを読む]

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    (新聞と9条:163)沖縄から:53(12/21)

     泡盛が入るにつれ、沖縄タイムスの政経部記者、大山哲(78)は気持ちが高ぶるのを感じた。 那覇市中心部の飲み屋。 本土と沖縄、それぞれのメディアに勤める報道関係者たちの議論は激しさを増……[続きを読む]

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    (新聞と9条:162)沖縄から:52(12/18)

     アメリカ軍が出した「防毒マスク着用」の条件は拒否――。 沖縄タイムス労働組合の結論を、社も了承した。沖縄から国外へ毒ガスを移送する「レッドハット作戦」で、軍が取材用バスを用意するなど……[続きを読む]

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    (新聞と9条:161)沖縄から:51(12/17)

     人々の生活に直接影響する事実に向き合う時、記者は「歴史の証言者」に徹するべきか、地域の一生活者であるべきか。 1971年、沖縄タイムス社内で交わされた議論はそのことに関わっている。 ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:160)沖縄から:50(12/16)

     アメリカ兵たちの激しいブーイングが響いた。 「反米騒動」とも呼ばれるコザ市(現・沖縄市)での事件の後、沖縄タイムスの記者、大山哲(78)は、現場を視察した琉球政府主席、屋良朝苗(やら……[続きを読む]

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    (新聞と9条:159)沖縄から:49(12/15)

     沸き立つ群衆をかき分けて、騒乱の中心にたどり着いた。発砲音が響き、暗闇に炎が上がり、タイヤの焼ける臭いがした。 沖縄・コザ市(現・沖縄市)の中心街、中の町。1970年12月20日未明……[続きを読む]

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    (新聞と9条:158)沖縄から:48(12/14)

     その日は週末だった。 1970年12月19日、沖縄・美里村(現・沖縄市)の美里中学校で、毒ガス兵器の撤去を求める県民大会が開かれていた。 前年、すでに日本とアメリカ両政府は沖縄返還を……[続きを読む]

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    (新聞と9条:157)沖縄から:47(12/11)

     沖縄は、アメリカ軍のあらゆる軍事機能を負わされた「基地の島」――。 1969年7月、基地内で起きた毒ガス漏れ事故で、人々はその事実を改めて思い知らされる。 その年11月の首脳会談で、……[続きを読む]

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    (新聞と9条:156)沖縄から:46(12/10)

     その事故が、沖縄のアメリカ軍基地の中で起きたことは、伏せられていた。 1969年7月、沖縄返還の日米交渉は核兵器の問題などをめぐって、まさに山場を迎える時だった。 7月18日付のアメ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:155)沖縄から:45(12/09)

     1969年11月22日、日米の返還合意に際し、沖縄タイムス夕刊の1面に掲載された社説の引用を続ける。 憲法9条の理念に近づくために――。 「憲法体制が指向するものと、空洞化の実態に直……[続きを読む]

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    (新聞と9条:154)沖縄から:44(12/08)

     1969年11月22日(日本時間)、沖縄返還が合意され、戦後四半世紀に及ぶアメリカ統治の終結が決まった。 日米首脳会談を取材するため、アメリカに派遣された沖縄タイムスの記者、又吉稔(……[続きを読む]

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    (新聞と9条:153)沖縄から:43(12/07)

     沖縄返還を議題とする日米首脳会談で、日本の新聞は連日、アメリカ軍が貯蔵する核兵器の問題を報じた。 朝日新聞アメリカ総局長、木谷忠と東京本社の政治部から特派された冨森(とみのもり)叡児……[続きを読む]

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    (新聞と9条:152)沖縄から:42(12/04)

     返還までに、沖縄に貯蔵された核兵器をすべて撤去すること――核抜き。 紛争などの緊急事態では再度、核を貯蔵、通過させること――有事再持ち込み。 後者が秘密合意にあたるものだ。 元京都産……[続きを読む]

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    (新聞と9条:151)沖縄から:41(12/03)

     表題に「1969年11月21日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する合意議事録」とある。 左上に「TOP SECRET」(機密)、2枚目には2人の首脳の署名。 ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:150)沖縄から:40(12/02)

     彼と出会ったのは、特派員としてアメリカにいたころだった。朝日新聞記者だった松山幸雄(85)はそう思い返す。 アメリカに出入りしていた日本人の国際政治学者の一人で、若く鋭そうな印象を受……[続きを読む]

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    (戦後70年 戦争と新聞)なぜ戦争協力の道へ(12/02)

     かつて日本が戦争への道を進んだ時代に新聞は何をしたのか。当事者の記者たちは戦後どんな思いを抱いて生きてきたのか。そこからくみ取るべき教訓は何か。安保法制が成立し、再び戦争と平和が問わ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:149)沖縄から:39(12/01)

     憲法と沖縄――。その隔たりを、彼は考え続けてきた。 新川(あらかわ)明(84)。沖縄タイムスの記者で後に社長となる。 沖縄返還に向けた日米交渉が続く1969年、タイムスに連載「疎外の……[続きを読む]

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    (新聞と9条:148)沖縄から:38(11/30)

     朝日新聞が1969年に連載した「沖縄報告」にこんな言葉が出てくる。 「あんなもの(B52)日本に持って行けばいいんですよ。私はいいますよ。ああ、日本に持って行け。君たち(と、記者をに……[続きを読む]

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    (新聞と9条:147)沖縄から:37(11/27)

     朝日新聞の連載記事「沖縄報告」は、1969年5月から10月まで、通算100回に及んだ。 年内にも行われる日米首脳会談に向け、沖縄返還は注目のニュースだった。政治部、社会部など各部から……[続きを読む]

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    (新聞と9条:146)沖縄から:36(11/26)

     沖縄と本土を隔てる「北緯27度線」。 1969年4月28日、双方から船を繰り出して復帰実現を求める「海上大会」を取材するため、朝日新聞の社会部記者、轡田(くつわだ)隆史(79)は、沖……[続きを読む]

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    (新聞と9条:145)沖縄から:35(11/25)

     沖縄本島を出港した船は北へ向かった。 船団と合流し、やがて本島最北端、辺戸(へど)岬から十数キロ北へ。そこで本土側からも船団が到着する。 北緯27度線――。沖縄と、日本に返還された奄……[続きを読む]

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    (新聞と9条:144)沖縄から:34(11/24)

     沖縄の日本への復帰は、少しずつ現実味を帯びていた。 1968年5月、日米両政府は施政権返還に向けた協議を開始。駐日大使ジョンソンは外相の三木武夫に、沖縄のアメリカ軍基地の機能について……[続きを読む]

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    (新聞と9条:143)沖縄から:33(11/20)

     「もういやだ。『血まみれのドル』では食べたくない」 1968年4月24日、朝日新聞那覇支局長、井川一久(81)が、アメリカ軍基地の食堂で働く若い女性から聞いた言葉だ。 死地へ向かう兵……[続きを読む]

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    (新聞と9条:142)沖縄から:32(11/19)

     「『核抜き』での沖縄返還など難しい。とくに政治部の考え方はそうだった」 朝日新聞のアメリカ特派員だった冨森叡児(とみのもりえいじ)(87)は、返還合意前の朝日新聞社内の雰囲気をそう振……[続きを読む]

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    (新聞と9条:141)沖縄から:31(11/18)

     沖縄に置かれた核兵器を撤去することは可能なのか。 1967年11月、首相の佐藤栄作はアメリカ大統領ジョンソンと首脳会談を行い、沖縄返還を協議。やがて日米両国の交渉は本格化へ向かう。 ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:140)沖縄から:30(11/17)

     沖縄返還に異論を唱えた笠(りゅう)信太郎のコラムが朝日新聞に掲載されてから9カ月後の1968年7月だった。 朝日新聞のアメリカ特派員、冨森叡児(とみのもりえいじ)(87)が、前駐日大……[続きを読む]

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    (新聞と9条:139)沖縄から:29(11/16)

     沖縄返還は時期尚早――。1967年、朝日新聞に掲載されたコラムでそう主張した元論説主幹の笠(りゅう)信太郎は、根っからの護憲論者だった。 太平洋戦争開戦の前に特派員として欧州に渡った……[続きを読む]

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    (新聞と9条:138)沖縄から:28(11/13)

     笠(りゅう)信太郎は、一般的に「リベラル」といわれる戦後の朝日新聞の論調を築き上げた一人だ。 戦時中、著作などで官憲ににらまれた。戦後は論説主幹を務めた1948年からの激動の14年、……[続きを読む]

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    (新聞と9条:137)沖縄から:27(11/12)

     沖縄を日本に復帰させるため、アメリカの軍事機能をどうすべきか。本土の記者はどう考え、新聞はどう報じたか――。 少し時間を戻そう。 1967年、アメリカでのことだ。 朝日新聞の特派員だ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:136)沖縄から:26(11/11)

     沖縄にはいったいどんな部隊が配備されているのか。 アメリカ陸軍の第7心理作戦グループは以前から問題になっていたが、暴露会見後の1971年4月22日、衆議院の沖縄・北方問題特別委員会で……[続きを読む]

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    (新聞と9条:135)沖縄から:25(11/10)

     その告発者は、おとなしそうなアメリカ人青年だった。 アメリカ陸軍の2等軍曹、デイビッド・ポプリン。当時20代。沖縄に駐留していた「第7心理作戦グループ」に所属する下士官だった。 19……[続きを読む]

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    (新聞と9条:134)沖縄から:24(11/09)

     沖縄のアメリカ軍基地の敷地内。兵士にビラを手渡したり、人の集まる場所にまとめて置いたり。ベトナム戦争に反対する「反戦米兵」のグループに連絡するよう求める言葉が書かれている。 「ビラを……[続きを読む]

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    (新聞と9条:133)沖縄から:23 (11/06)

     クイック・キリング・トレーニング――「早殺し訓練」とでも訳すのだろうか。 復帰前の沖縄。朝日新聞那覇支局長だった井川一久(81)がそれを見たのは、かつて本島北部・宜野座村にあったアメ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:132)沖縄から:22(11/05)

     沖縄から出撃したアメリカ軍機がベトナムを爆撃し、アメリカ兵たちは人々を殺している。沖縄もある意味「加害者」ではないか――。 この思いは、ベトナム戦争当時の沖縄の記者たちに少なからずあ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:131)沖縄から:21(11/04)

     沖縄本島北部・名護市辺野古のアメリカ軍キャンプ・シュワブ。 政府はここで今、海上ヘリ基地の建設工事を進めている。それに隣接する「辺野古弾薬庫」は復帰前、特に警備が厳重で、核兵器の貯蔵……[続きを読む]

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    (新聞と9条:130)沖縄から:20(11/02)

     アメリカ軍は、沖縄のどの基地にどれだけの核兵器を貯蔵しているのか。記者たちはそれを探ろうと必死だった。 沖縄タイムスの記者だった國吉永啓(ながひろ)(79)は連日、基地で将校らに問い……[続きを読む]

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    (新聞と9条:129)沖縄から:19(10/30)

     「なぜそんなことを調べる。布令の条項を知らないのか?」 那覇市にあった琉球列島米国民政府(USCAR)の事務室。日系アメリカ人の職員は机に足を投げ出し、國吉永啓(ながひろ)(79)に……[続きを読む]

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    (新聞と9条:128)沖縄から:18(10/29)

     滑走路で爆発した戦略爆撃機B52は、ベトナムの地に災禍をもたらしていた。 台風を避けるとしてグアム島から沖縄・嘉手納基地へ編隊で飛来したのは、事故の3年前の1965年7月。 そして―……[続きを読む]

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    (新聞と9条:127)沖縄から:17(10/28)

     戦略爆撃機B52――。「黒い殺し屋」ともいわれたアメリカ軍機が台風を避けるなどとして沖縄の嘉手納基地に来るようになったのは、「北爆」と呼ばれる北ベトナムへの空爆が始まった1965年。……[続きを読む]

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    (新聞と9条:126)沖縄から:16(10/27)

     極東最大ともいわれるアメリカ空軍の嘉手納基地は、今も沖縄本島中部・嘉手納町の面積の約8割を占めている。 1968年11月19日午前4時過ぎ。 基地から数十メートル、沖縄タイムス嘉手納……[続きを読む]

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    (新聞と9条:125)沖縄から:15(10/26)

     「教育権の復帰運動を契機にして、完全復帰の足場をきづかなければならない」(1966年11月15日付沖縄タイムス) 沖縄教職員会は、「教育権」を分離してアメリカから返還させる案を、条件……[続きを読む]

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    (新聞と9条:124)沖縄から:14(10/23)

     沖縄の「施政権」をアメリカが日本に返せば、基地を自由に使用できなくなる。であるなら、数ある施政権の中で、教育など軍事的機能とは関係のない民生面の権限だけでも日本に返還させよう――。 ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:123)沖縄から:13(10/22)

     東京都世田谷区。1966年8月22日夜、朝日新聞の堀越作治(85)は、同僚と豪邸を見上げていた。 36歳の政治部記者で、総理府を担当。総理府総務長官に就任したばかりの森清の自宅を訪れ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:122)沖縄から:12(10/21)

     沖縄・那覇市生まれの真喜志(まきし)津留子(91)が長崎で暮らすようになったのは、二十歳のころだった。兄夫婦をたより、父母も沖縄から来て一緒に住んでいた。 1945年8月9日、長崎市……[続きを読む]

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    (新聞と9条:121)沖縄から:11(10/20)

     アメリカが支配する沖縄に日本国憲法は適用されない――。 これが当時の日本政府の考えである。 首相・佐藤栄作が初めて沖縄を訪問した翌月の1965年9月7日に政府の統一見解が発表された。……[続きを読む]

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    (新聞と9条:120)沖縄から:10(10/19)

     首相、佐藤栄作の沖縄防衛発言で、国会は5日間にわたって空転した。 発言から4日後の1966年3月14日、社会党はこの問題に関する統一見解を発表する。次のような内容だ。 憲法9条の解釈……[続きを読む]

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    (新聞と9条:119)沖縄から:9(10/16)

     アメリカが沖縄を統治することができたのは「施政権」を持っていたからである。 時代はさかのぼる。日本の敗戦から6年後の1951年、日本がアメリカなど戦勝国と締結したサンフランシスコ講和……[続きを読む]

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    (新聞と9条:118)沖縄から:8(10/15)

     「第一義的にアメリカがこれを守るにいたしましても、私どもも沖縄同胞のために、日本人らしくその一体としての防衛の任に当たる、こういうことは考えられるだろう……希望を述べれば、必ずアメリ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:117)沖縄から:7(10/14)

     首相の佐藤栄作は沖縄訪問2日目の1965年8月20日、「琉球列島米国民政府」(USCAR)を統括する高等弁務官、ワトソンと会談する。沖縄統治のためにアメリカ軍が設置した機構の長だ。そ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:116)沖縄から:6(10/13)

     沖縄が復帰しない限り、「戦後」は終わらない――。佐藤栄作は1965年8月19日、首相として戦後初めて沖縄を訪れ、那覇空港に到着した時の演説でそう語った。 沖縄の人々にその言葉はどう響……[続きを読む]

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    (新聞と9条:115)沖縄から:5(10/09)

     沖縄の新聞、琉球新報社に入社したばかりだった三木健(75)は、1965年5月、復帰前の沖縄で初めての「憲法記念日」に向け、特集紙面を担当した。 自らの思いを込め、最後にこうつづった。……[続きを読む]

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    (新聞と9条:114)沖縄から:4(10/08)

     憲法に心ひかれた――。アメリカ支配の時代の沖縄を知る新聞記者たちの多くから、その言葉を聞く。 復帰の7年前、初めて憲法記念日が制定された1965年は、沖縄にとって、いくつかの意味で重……[続きを読む]

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    (新聞と9条:113)沖縄から:3(10/07)

     憲法の及ばぬ沖縄で、5月3日を憲法記念日に――。 復帰前の沖縄の議会「立法院」で若き議員、古堅実吉(ふるげんさねよし)(86)らが発議した議案は、付託された委員会でも異論は出ず、4月……[続きを読む]

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    (新聞と9条:112)沖縄から:2(10/06)

     居並ぶ議員たちを前に、古堅実吉(ふるげんさねよし)(86)は緊張が高まるのを感じた。 1965年3月16日、日本に復帰する前の沖縄の議会である「立法院」の議場。U字形に並ぶ議席から背……[続きを読む]

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    (新聞と9条:111)沖縄から:1(10/05)

     強い日差しがアスファルトの路面に照りつける。伸縮式の仮設ゲートやネットが置かれ、抗議の座り込みを続ける人々を警官や警備員が取り囲み、緊張感は高まる。 「違法工事はいますぐやめろっ」。……[続きを読む]

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    辺野古造れば基地100年抱えることに 沖縄少女暴行事件当時外相・河野洋平氏、語る(10/05)

     沖縄・辺野古への米軍基地移設をめぐり政府と沖縄県が対立する中、20年前に起きた米兵による「少女暴行事件」の時の外相だった河野洋平氏(78)が朝日新聞のインタビューに応じた。当時、日米……[続きを読む]

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    (もう一つの戦後 日系米国人の70年:15)「日本」を受け継ぐ(10/02)

     今年4月、訪米した日本の首相、安倍晋三が米議会で演説した。その様子を傍聴しながら、フレッド・カタヤマ(55)は予想外の感慨にとらわれた。 「かつて米国の政治家は日系人にひどい差別をし……[続きを読む]

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    (もう一つの戦後 日系米国人の70年:2)ハワイ社会とカヌー(09/10)

     10代の頃のオバマの担任教諭だった日系3世のエリック・クスノキは、戦後まもなく、ハワイのワイキキで生まれた。 現在のような高層ホテルは、まだ立ち並んでいなかった。海岸を裸足で走り、野……[続きを読む]

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    (もう一つの戦後 日系米国人の70年:1)オバマの恩師(09/09)

     その日、ホノルルから来た教師のエリック・クスノキ(66)は、ポロシャツに半ズボン、スニーカーという格好だった。数年前のことだ。ごく普通の観光客としてホワイトハウスを見学する予定だった……[続きを読む]

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    (新聞と9条:110)砂川事件:47(09/08)

     「砂川事件の最高裁上告審は、公平を欠いた汚れた裁判だった」 そう主張する元被告ら4人が2014年6月17日、東京地裁に再審請求した。 近年、発見された米外交文書によって、最高裁長官の……[続きを読む]

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    (新聞と9条:109)砂川事件:46(09/07)

     「裁判官が真剣に勇気をもってその重大な使命を果たしたことに敬服する。……特に安保条約が違憲でないこと、米駐留軍が日本の戦力でないことについて、(裁判官に)一人の反対もなかったことは………[続きを読む]

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    (新聞と9条:108)砂川事件:45(09/04)

     「駐留米軍は日本の軍隊ではない。だから憲法が保持を禁ずる戦力にあたらない」 1959年12月の砂川事件最高裁判決はそう判断した。それは東京大教授(国際法)、横田喜三郎の考えと重なる。……[続きを読む]

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    (新聞と9条:107)砂川事件:44(09/03)

     「裁判官は法の理念に奉仕するという燃えるような理想主義的態度が要求される。法は裁判官によつて活力を与えられるから、裁判官の人格の力を度外視しては真に裁判らしい裁判はあり得ない」 「こ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:106)砂川事件:43(09/02)

     「結審後の審理は実質的な全員一致を生み出し、世論を“揺さぶる”もとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っている」(新原昭治、布川玲子「砂川事件と田中最高裁長官」) ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:105)砂川事件:42(09/01)

     国際問題研究者、新原昭治(84)が2008年4月、米国立公文書館で発見した砂川事件上告審に関する14の外交文書のなかに、次の一通があった。1959年4月24日、駐日米国大使マッカーサ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:104)砂川事件:41(08/31)

     その文字が視線の先にふれたとき、国際問題研究者の新原昭治(しょうじ)(84)は、胸が高鳴るのを覚えた。 「SUNAKAWA」(砂川) 「AKIO DATE」(伊達秋雄) 2008年4……[続きを読む]

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    (新聞と9条:103)砂川事件:40(08/28)

     砂川事件最高裁判決から1年半近くたった1961年5月30日、朝日新聞夕刊社会面に次の見出しのベタ記事が載った。 「伊達裁判長やめる」 一審で駐留米軍違憲判決を言い渡した東京地裁判事、……[続きを読む]

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    (新聞と9条:102)砂川事件:39(08/27)

     1960年6月15日午後7時すぎ、「安保反対」を叫ぶ全学連の学生数千人が国会構内に突入した。学生と警官隊が激しく衝突する中、当時22歳の大学生、樺(かんば)美智子が死亡した。 しかし……[続きを読む]

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    (新聞と9条:101)砂川事件:38(08/26)

     新安保条約の国会審議が大詰めを迎えた1960年5月19日、朝日新聞は、首相の岸信介と社会党委員長、浅沼稲次郎の主張を大きなスペースで紹介した。 岸はこう論じた。 「もはや単独に自国が……[続きを読む]

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    (新聞と9条:100)砂川事件:37(08/25)

     砂川事件の一審で違憲判決を言い渡した東京地裁判事、伊達秋雄は、1959年12月の最高裁判決を受けて、こう語る。 「もし憲法制定当時に日本憲法が掲げる平和主義が、今度の(最高裁)判決の……[続きを読む]

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    (新聞と9条:99)砂川事件:36(08/24)

     砂川事件の最高裁判決が出た1959年12月16日、各紙夕刊は1面トップで判決を報じた。朝日新聞は憲法学者、伊藤正己の解説を3面に掲載。伊藤はこう述べた。 「判決は、駐留米軍が憲法で禁……[続きを読む]

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    (新聞と9条:98)砂川事件:35(08/21)

     1959年12月16日に出た砂川事件最高裁判決を国際法学者の高野雄一は次のように評した。 「そこには安保条約問題の天目山である『極東の平和』条項や集団的自衛権に関する(国連)憲章・憲……[続きを読む]

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    (新聞と9条:97)砂川事件:34(08/20)

     「日本は安全保障のため日米共同防衛体制をとっているが、これは自衛隊が盾、米軍が剣の役割をする体制である」 砂川事件上告審当時の防衛庁統合幕僚会議議長、林敬三の言葉だ。 弁護人の内藤功……[続きを読む]

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    (新聞と9条:96)砂川事件:33(08/19)

     「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」 1959年12月16……[続きを読む]

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    (新聞と9条:95)砂川事件:32(08/18)

     砂川事件の上告審で最高裁大法廷は、裁判官15人の全員一致で「原判決破棄、差し戻し」の結論を出し、10人が「補足意見」「意見」を表明した。 裁判長で最高裁長官の田中耕太郎は補足意見で次……[続きを読む]

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    (新聞と9条:94)砂川事件:31(08/17)

     原判決を破棄、差し戻した1959年12月16日の砂川事件上告審で、最高裁大法廷は、判決理由を次のように述べた。 ――憲法9条は、自衛権を否定していない。憲法の平和主義は無防備、無抵抗……[続きを読む]

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    (新聞と9条:93)砂川事件:30(08/14)

     「原判決を破棄する。本件を東京地方裁判所に差し戻す」 砂川事件上告審で、最高裁大法廷の裁判長、田中耕太郎が判決を言い渡した。1959年12月16日午前10時すぎのことだ。 「米軍の駐……[続きを読む]

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    (新聞と9条:92)砂川事件:29(08/13)

     砂川事件の上告審で最高裁大法廷は1959年9月28日、15人の裁判官による合議を開始した。11月中には終えて、その後、判決文の起草にかかるものとみられた(29日付朝日新聞)。 10月……[続きを読む]

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    (新聞と9条:91)砂川事件:28(08/12)

     砂川事件上告審は1959年9月18日、検察側、弁護側の最終弁論が行われた。 検察側の弁論に立ったのは最高検検事、吉河光貞。戦時下にスパイとして摘発されたドイツ人、ゾルゲの取り調べにあ……[続きを読む]

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    (新聞と9条:90)砂川事件:27(08/11)

     砂川事件上告審が最高裁大法廷で始まった1959年9月7日、主任弁護人の海野普吉の弁論中のことだった。傍聴席の一部から2回、拍手が起きた。 裁判長の田中耕太郎が注意した。 「ここは演説……[続きを読む]

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    (新聞と9条:89)砂川事件:26(08/10)

     1959年9月7日午前10時3分、15人の裁判官が最高裁大法廷の席についた。傍聴席には米ソの記者数人も陣取り、全111席がほぼ埋まった。砂川事件上告審の審理が始まった(7日付朝日新聞……[続きを読む]

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    (戦後70年 新聞と9条)自衛権とは、論じ伝えた 砂川判決、「行使」語られず(08/10)

     新聞や言論は、憲法誕生から「砂川事件」までの約10年間、9条とどう向かい合ってきたのか。新たな安全保障関連法案が国会で審議されているいま、集団的自衛権容認の最大の根拠とされる砂川最高……[続きを読む]

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    (新聞と9条:88)砂川事件:25(08/07)

     集団的自衛権について、日本の国際法学者らが「自衛権の観念の濫用(らんよう)である」との見解をまとめたことがある。 米軍立川基地の拡張計画をめぐって、地元住民と調達庁との間で対立が続い……[続きを読む]

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    (新聞と9条:87)砂川事件:24(08/06)

     「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又(また)は集団的自衛の固有の権利を有すること……を承認する」 1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和……[続きを読む]

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    (新聞と9条:86)砂川事件:23(08/05)

     「駐留米軍は日本の管理下にない。従って憲法が禁ずる戦力の保持にあたらない」 そう主張する検察側の上告趣意書に反論するため、砂川事件弁護団は1959年8月4日、計50万字にのぼる「答弁……[続きを読む]

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    (新聞と9条:85)砂川事件:22(08/04)

     1959年6月14日、最高裁長官の田中耕太郎と、経済学者の中山伊知郎の対談が読売新聞に掲載された。 タイトルは「裁判と“雑音”」。 3週間前の5月25日、田中は全国の高裁長官、地裁所……[続きを読む]

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    (新聞と9条:84)砂川事件:21(08/03)

     「米軍駐留は違憲」と判断した砂川事件東京地裁判決に対し、東京地検は1959年6月2日、最高裁第一小法廷に上告趣意書を提出した。憲法9条と米軍駐留の関係について、検察側は次のように主張……[続きを読む]

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    (新聞と9条:83)砂川事件:20(07/31)

     砂川事件の弁護団と最高裁との間で、弁護人の数の制限などをめぐってやりとりが続く1959年5月6日のことだ。内閣の調査審議機関である憲法調査会の第30回総会が開かれた。委員の一人、政治……[続きを読む]

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    (新聞と9条:82)砂川事件:19(07/30)

     「日本の運命を左右する憲法裁判を闘い抜くため、上告審は1千人の大弁護団の結成をめざす」 1959年4月上旬、砂川事件の被告弁護団が記者発表した。 ところが、東京地裁から事件記録の送付……[続きを読む]

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    (新聞と9条:81)砂川事件:18(07/29)

     米軍駐留は憲法9条に反する、と判断した砂川事件東京地裁判決に対し、最高検は1959年4月3日、最高裁へ跳躍上告することを決め、手続きをとった。 跳躍上告は、一審判決で法律などが違憲と……[続きを読む]

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    (新聞と9条:80)砂川事件:17(07/28)

     砂川事件の東京地裁判決を朝日新聞は、1959年4月2日の社説で批判した。 ――米軍駐留によって生ずる戦力は、米国が保持するのであって、日本自体の戦力ではない、したがって憲法違反ではな……[続きを読む]

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    (新聞と9条:79)砂川事件:16(07/27)

     1959年3月30日に言い渡された砂川事件東京地裁判決は、米軍駐留と憲法9条の関係を次のように判断した。 ――9条は自衛権を否定するものではない。しかし、侵略戦争はもちろん、自衛のた……[続きを読む]

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  • 復帰の前年、女性たちが集まって反自衛隊の集会を行った=1971年12月、那覇市の与儀公園
  • 復帰を前に、那覇基地に日の丸の自衛隊機が着陸した=1972年4月
  • 那覇市民の「台所」、公設市場で働く女性たち=1969年
  • 沖縄と本土の一体化に向けて諮問委員会発足のための公文を交換する三木武夫外相(左)とジョンソン駐日米大使=1968年1月、外務省
  • 海上基地建設が進むキャンプ・シュワブに隣接する辺野古弾薬庫。復帰前は核兵器の貯蔵庫といわれた=1972年5月
  • 復帰の日、政府の対応などに抗議するデモ行進には高校生の姿も=1972年5月15日、那覇市
  • 石川文洋氏が撮影しアサヒグラフに掲載された上田小学校の教室=1972年5月15日、沖縄・旧豊見城村
  • 沖縄返還のあり方に抗議し、祝賀の幕の下を行進する人々=1972年5月15日、那覇市・国際通り
  • 「完全復帰」などを訴えて沖縄全島でゼネストが決行された=1971年11月10日、那覇市役所前
  • ゼネストに参加する人出を当て込み、焼き芋屋や麦わら帽子を売る店が並んだ=1971年5月、那覇市の与儀公園
  • 毒ガス移送で、腰に防毒マスクを下げて警戒にあたるMP。地元民は避難所へ向かう=1971年1月13日、沖縄・美里村
  • 毒ガスを積んだ車両が人通りのない道を走る=1971年1月13日、沖縄・美里村(現・沖縄市)
  • 1970年11月、復帰前の沖縄で実施された「国政参加選挙」で当選した革新系議員たち。左から喜屋武真栄、安里積千代、瀬長亀次郎、上原康助の各氏=羽田空港
  • コザの事件の後、現場近くの嘉手納基地ゲートでは厳しい検問が続いた=1970年12月
  • 押し倒され炎上する自動車=1970年12月、沖縄・コザ市(現沖縄市)
  • 毒ガスが置かれていた沖縄本島中部の知花弾薬貯蔵地域=1969年8月
  • 沖縄に保管されていた毒ガスの撤去に向けて基地の砲弾を点検する政府派遣調査団=1971年1月
  • 日米共同声明のテレビ中継を見る沖縄県人会の人々=1969年11月、東京都内
  • 佐藤栄作首相の訪米反対、基地撤去などを訴えた県民総決起大会=1969年11月、那覇市の与儀公園
  • 沖縄問題について参院外務委員会で答弁する愛知揆一外相(右)=1970年6月
  • アメリカ空軍嘉手納基地から嘉手納弾薬庫へ運ばれる「核」とみられる爆弾(左奥)。警備隊が道路を遮って通した=1971年6月

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